ポスター
2006年2月7日 教室の外のロビーの壁に、数日前からあるポスターが張り出されている。
『呼吸器専門医の資格に非喫煙者であることが加わりました』
確かに日本呼吸器学会(http://www.jrs.or.jp/)のページから専門医制度規則を見ると
となっている。まあ当たり前と言えば当たり前。
『呼吸器専門医の資格に非喫煙者であることが加わりました』
確かに日本呼吸器学会(http://www.jrs.or.jp/)のページから専門医制度規則を見ると
第12条
専門医の認定を申請する者は、次の各条件をすべて充足することを要する。
1.申請時において4年以上継続して本学会の会員であること。
2.この規則により認定された認定施設において、本学会所定の研修カリキュラムに従い日本内科学会認定内科医資格取得した年度も含めて3年以上、呼吸器病学の臨床研修を行い、これを終了した者。
3.非喫煙者であること。
となっている。まあ当たり前と言えば当たり前。
高裁も父子関係認めず 死亡男性の凍結精子で出生
2006年2月2日内縁関係にあった男性の死亡後、凍結保存した精子を使った体外受精で女児を出産した関東地方の女性が、女児を男性の子と認知するよう求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁は1日、請求を棄却した1審東京地裁判決を支持、女性側の控訴を棄却した。
死後生殖で生まれた子の認知をめぐる訴訟は、原告敗訴の松山地裁判決を高松高裁が逆転させた西日本のケースに次ぎ2例目(被告検察側が上告)。東京高裁の控訴棄却で、高裁段階での判断が分かれる結果となった。
判決理由で宮崎公男裁判長は「法律上の親子関係を認めるかどうかは、遺伝的な血縁関係、精子提供者ら関係者の意思だけでなく、子の利益、生殖補助医療の社会的相当性、現行法との整合性などを総合的に検討し判断すべきだ」と指摘。
つまり、単に生物学的に親子というだけでなく、生まれたときから父がいないという不利益や、体外受精が社会的にどの程度認められているかという情勢なども考慮すべきだ、ということ。では結局誰が判断するのかという点については「裁判所がその都度判断するのが相当」であるとしている。
ここで引っかかることが一つ。昨日の日記の内容にも関係するが、司法が法令が想定していないような事態に対して、社会情勢や世論といった法令の枠組みの外で積極的に解釈していくことは適当なのだろうかということ。ライブドア事件で見てきたように、社会情勢や世論は一日で変わりうるものである。裁判というものは現行法の枠組みをできるだけ適用していった上で、それでも足りない部分について裁判官が考慮するべきものだと自分は考えている。その点今回の判決は私にしてみれば拡大解釈のしすぎのような気がする。
なお、高松高裁ではこれと逆の判決がででいるが、公開されている判決文を見ると
「確かに,認知の訴えが制定された当時は,自然懐胎のみが問題とされており,同規定は,人工受精による懐胎を考慮して制定されたものではない。しかしながら,認知の訴えは,婚姻外の男女による受精及び懐胎から出生した子について,事実上の父との自然血縁的な親子関係を客観的に認定することにより,法的親子関係を設定するために認められた制度であって,その観点からすれば,認知請求を認めるにつき,懐胎時の父の生存を要件とする理由はないというべきである」
としている。つまり、現行法を解釈する限り、認知は生物学的に親子であるが法的に親子関係がない場合にそれを認める制度であって、請求時に父親がいないということは認知請求を拒否する理由にならない、としている。この判決はどちらかと言えば現行法の枠組みの中で精一杯解釈しようとしているもので、その点では私の考えに近く評価できる判決である。
といっても司法に関しては素人なのでとんでもない間違いをしているかも知れない。その点はご容赦願いたい。
気になる訴訟?
2006年2月1日毎日新聞より
群馬大医学部の05年度入試で、年齢を理由に不合格の判定を受けたのは不当として、東京都目黒区の女性(55)が群大に医学部医学科の入学許可を求めた訴訟の第4回口頭弁論が27日、前橋地裁であった。
原告側は訴訟形態を民事から行政訴訟に切り替えることなどを盛り込んだ訴状変更申請書を提出したが、同地裁はこれを留保した。原告代理人によると、国立大学法人が行政訴訟の対象となるのは前例がないという。
原告代理人は「我々としてはどちらでもいいから認めてもらいたいということ」と話し、民事を継続したまま行政訴訟を起こすことも視野に入れ協議を進める。同地裁は今後、行政訴訟の対象に国立大学法人が適格かどうかを含めた申請の可否を検討するという。
また原告側は27日、不合格判定の無効確認も訴状に追加することを申請。さらに女性が受験に至る経緯や不合格の理由を職員に尋ねた時の詳細を記した陳述書を提出した。
-------------------------------------------------------
少し分かりにくいですが、この訴訟はそもそも「裁判として成立するか」という問題が含まれています。
もともと大学には自治が認められているので「合格を決めるのは自律的な規範を有する大学の裁量であり、一般市民の法秩序とは関係がないので、司法による審査の対象にならない」という考えがあるからです(部分社会論と言います。富山大学単位不認定事件という有名な判例があります)。
原告の代理人が「我々としてはどちらでもいいから認めてもらいたいということ」と言っているのは、恐らく裁判官側から、裁判所としては上記の理由から訴訟として介入したくない(つまり当事者で話し合って解決してくれ、ということ)というような事を言われているのだと推測されます。
もし司法が判断をすれば、入学を決めるのは大学でなく国家の裁量だと言うことになります。しかも年齢の平等を無差別に認めうることになれば、他の契約関係においても大きな影響がでてきます。
たとえば、学校の教員には年齢制限がありますが、年齢の平等が認められると、教育委員会は40歳の受験は認めるが、41歳の受験は何故認めないかいちいち理由を付けなければいけません。アルバイトの採用にしたってそうですね。かえって社会に大きな混乱を起こしかねません。
差別は認められるべきではないのは当然ですが、それに対して行政や司法が過度に介入すると逆差別を生み出しかねません。だからなんとか当事者同士で解決してくれ、というのが裁判所の意図だと考えられます。だからこんな記事になったのでしょう。
医学部では地方枠や学士入学枠を設けるところが多いですが、これにしたって、このような制度のために本来その大学に入る実力をもつ他県の学生や現役生を締め出す制度と受け取ることも出来ます。だから入学の裁量権というのは思ったより難しいものだと感じています。
群馬大医学部の05年度入試で、年齢を理由に不合格の判定を受けたのは不当として、東京都目黒区の女性(55)が群大に医学部医学科の入学許可を求めた訴訟の第4回口頭弁論が27日、前橋地裁であった。
原告側は訴訟形態を民事から行政訴訟に切り替えることなどを盛り込んだ訴状変更申請書を提出したが、同地裁はこれを留保した。原告代理人によると、国立大学法人が行政訴訟の対象となるのは前例がないという。
原告代理人は「我々としてはどちらでもいいから認めてもらいたいということ」と話し、民事を継続したまま行政訴訟を起こすことも視野に入れ協議を進める。同地裁は今後、行政訴訟の対象に国立大学法人が適格かどうかを含めた申請の可否を検討するという。
また原告側は27日、不合格判定の無効確認も訴状に追加することを申請。さらに女性が受験に至る経緯や不合格の理由を職員に尋ねた時の詳細を記した陳述書を提出した。
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少し分かりにくいですが、この訴訟はそもそも「裁判として成立するか」という問題が含まれています。
もともと大学には自治が認められているので「合格を決めるのは自律的な規範を有する大学の裁量であり、一般市民の法秩序とは関係がないので、司法による審査の対象にならない」という考えがあるからです(部分社会論と言います。富山大学単位不認定事件という有名な判例があります)。
原告の代理人が「我々としてはどちらでもいいから認めてもらいたいということ」と言っているのは、恐らく裁判官側から、裁判所としては上記の理由から訴訟として介入したくない(つまり当事者で話し合って解決してくれ、ということ)というような事を言われているのだと推測されます。
もし司法が判断をすれば、入学を決めるのは大学でなく国家の裁量だと言うことになります。しかも年齢の平等を無差別に認めうることになれば、他の契約関係においても大きな影響がでてきます。
たとえば、学校の教員には年齢制限がありますが、年齢の平等が認められると、教育委員会は40歳の受験は認めるが、41歳の受験は何故認めないかいちいち理由を付けなければいけません。アルバイトの採用にしたってそうですね。かえって社会に大きな混乱を起こしかねません。
差別は認められるべきではないのは当然ですが、それに対して行政や司法が過度に介入すると逆差別を生み出しかねません。だからなんとか当事者同士で解決してくれ、というのが裁判所の意図だと考えられます。だからこんな記事になったのでしょう。
医学部では地方枠や学士入学枠を設けるところが多いですが、これにしたって、このような制度のために本来その大学に入る実力をもつ他県の学生や現役生を締め出す制度と受け取ることも出来ます。だから入学の裁量権というのは思ったより難しいものだと感じています。
ひさびさに
2006年1月28日毎日新聞より、抜粋
研究経験のある者から言えば、信じられない話です。研究ノートは研究者にとって命の次に大事なものです。研究者が頭をひねってアイデアを出し、苦労して実験を重ね、望む結果が出れば喜び、結果が出なければ落ち込み、悩みながらも明日を信じる、そういった研究の醍醐味がすべてつまったものが研究ノートです。
私のいたところでは、一日の最後にその日の実験とデータをまとめて署名をし、教授か助教授に見せて(いなければ翌朝になります)サインをもらう決まりでした。当然その時に実験データについての検証と議論が行われます。次の日の実験の準備や実験の失敗のために、何も結果が出なくても持っていく決まりでした。勿論ノートを勝手に捨てることは許されず、不要になったノートはテーマ別に分類して研究室に保管される決まりでした。
この事件でふと思い立って私の仕事を引き継いでくれている後輩に連絡をとりました。もう研究を離れて10年近くなりますが、私のノートはまだ残っていて、参考にすることがあるそうです。
東京大大学院工学系研究科の多比良(たいら)和誠(かずなり)教授らが発表したRNA(リボ核酸)に関する論文について、同研究科は27日、「再現性はない」と事実上の不正認定を下した。多比良教授らは「結論を出すのが早すぎる」と反論するが、「世界最先端」の成果を生んだ研究活動の実態は、実験記録がないなどずさんなものだった。
「私は実験はよく分からない。川崎君に任せていたから」。不正疑惑が公になった昨年9月、多比良教授は毎日新聞の取材に対し、実験は助手任せだったと繰り返した。
川崎広明助手は95年、筑波大の博士課程の学生として多比良教授に師事して以来、二人三脚で論文を量産してきた。「理論通りの実験データを出す神の手を持つ男」だと多比良教授はRNAに関する実験は川崎助手に任せきりだったが、今回の調査で、実験ノートが存在していないことも判明した。川崎助手は「パソコンにメモ程度を残しているが、ノートが実験の正しさを証明するのに必要なものだとは思わなかった」と説明した。
研究経験のある者から言えば、信じられない話です。研究ノートは研究者にとって命の次に大事なものです。研究者が頭をひねってアイデアを出し、苦労して実験を重ね、望む結果が出れば喜び、結果が出なければ落ち込み、悩みながらも明日を信じる、そういった研究の醍醐味がすべてつまったものが研究ノートです。
私のいたところでは、一日の最後にその日の実験とデータをまとめて署名をし、教授か助教授に見せて(いなければ翌朝になります)サインをもらう決まりでした。当然その時に実験データについての検証と議論が行われます。次の日の実験の準備や実験の失敗のために、何も結果が出なくても持っていく決まりでした。勿論ノートを勝手に捨てることは許されず、不要になったノートはテーマ別に分類して研究室に保管される決まりでした。
この事件でふと思い立って私の仕事を引き継いでくれている後輩に連絡をとりました。もう研究を離れて10年近くなりますが、私のノートはまだ残っていて、参考にすることがあるそうです。
臨床の授業も進んでいますが、自分としては選挙の結果のショックが大きすぎて、未だに引きずり続けています。
今の自民党・公明党と民主党という二つの勢力が対立する政治構造においては、「バランス感覚」は絶対に必要だと思います。一方の政党に勝たせすぎては絶対にいけないのです。私は決して反自民でもないし、民主ファンでもありません(労組とのつながりや元々複数の党の寄せ集めのため、今回の郵政民営化のように主張がしばしばずれていってしまう点で、むしろ民主党は嫌いな政党であると言ってもいいと思います)が、今回は自民に勝たせすぎないような投票をしたつもりです。
逆に民主党がもし圧勝しそうなら、私は自民党に入れるでしょう。その場の雰囲気に流されず、何が重要かを考えて戦略的に投票する。それが自分の一貫した態度です。事実自民党に投票したこともあります。
今の状態では民主党は必ず弱体化していきます。200前後の議席を確保していれば、自民党は内部や公明党の造反があれば勢力がひっくり返ってしまうから、緊張感のある政治運営を迫られます。官僚や財界も民主党を無視できなくなります。ところが100そこそこの議席では少々の事があってもひっくり返りません。民主党のこの国に対する影響力は弱まっていくでしょう。
野党が弱くなれば、国民の多様な意見を吸い上げてもらう場が事実上与党だけになってしまいます。国民の政治に対する関心も無くなっていくでしょう。
多様な意見が出ると言うことは、成熟した民主国家には必要なことだし、むしろ多様な意見をどうまとめていくかが政治の醍醐味であると思うのですが、自分の思い入れだけでそれほど大切にも見えない郵政民営化を最重要課題にし、自分に反対するものは党から追い出すばかりか刺客まで送って徹底的につぶしにかかる。自分と異なるものには耳を貸さず「抵抗勢力」というレッテルを勝手につけて自分はそれと戦っているんだと言って見せて同情を誘う。俳優としては一流かも知れませんが、政治家としてはどうなのでしょう。
その時はカタルシスがあって見ていて気持ちのいいものかも知れないけれど、あれだけ反対反対と叫んでいた参議院の議員たちが次々と郵政民営化に賛成を表明していく様を見ていくと、みんな本当にこれでいいと思っているのかな、それとも何も考えていないのか…と思ってしまいます。子は親を見て育ちます。多様な意見を受け容れようとしない今のこの国の政治は、きっと私たちの心そのものにも悪い影響を与えていくような気がします。
今の自民党・公明党と民主党という二つの勢力が対立する政治構造においては、「バランス感覚」は絶対に必要だと思います。一方の政党に勝たせすぎては絶対にいけないのです。私は決して反自民でもないし、民主ファンでもありません(労組とのつながりや元々複数の党の寄せ集めのため、今回の郵政民営化のように主張がしばしばずれていってしまう点で、むしろ民主党は嫌いな政党であると言ってもいいと思います)が、今回は自民に勝たせすぎないような投票をしたつもりです。
逆に民主党がもし圧勝しそうなら、私は自民党に入れるでしょう。その場の雰囲気に流されず、何が重要かを考えて戦略的に投票する。それが自分の一貫した態度です。事実自民党に投票したこともあります。
今の状態では民主党は必ず弱体化していきます。200前後の議席を確保していれば、自民党は内部や公明党の造反があれば勢力がひっくり返ってしまうから、緊張感のある政治運営を迫られます。官僚や財界も民主党を無視できなくなります。ところが100そこそこの議席では少々の事があってもひっくり返りません。民主党のこの国に対する影響力は弱まっていくでしょう。
野党が弱くなれば、国民の多様な意見を吸い上げてもらう場が事実上与党だけになってしまいます。国民の政治に対する関心も無くなっていくでしょう。
多様な意見が出ると言うことは、成熟した民主国家には必要なことだし、むしろ多様な意見をどうまとめていくかが政治の醍醐味であると思うのですが、自分の思い入れだけでそれほど大切にも見えない郵政民営化を最重要課題にし、自分に反対するものは党から追い出すばかりか刺客まで送って徹底的につぶしにかかる。自分と異なるものには耳を貸さず「抵抗勢力」というレッテルを勝手につけて自分はそれと戦っているんだと言って見せて同情を誘う。俳優としては一流かも知れませんが、政治家としてはどうなのでしょう。
その時はカタルシスがあって見ていて気持ちのいいものかも知れないけれど、あれだけ反対反対と叫んでいた参議院の議員たちが次々と郵政民営化に賛成を表明していく様を見ていくと、みんな本当にこれでいいと思っているのかな、それとも何も考えていないのか…と思ってしまいます。子は親を見て育ちます。多様な意見を受け容れようとしない今のこの国の政治は、きっと私たちの心そのものにも悪い影響を与えていくような気がします。
選挙結果
2005年9月16日 頭がくらくらしました。
選挙が終わって、色々と「後出し」が出てきていますが、その最たるものがこれです。
http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20050913i205.htm
要点を言えば、自衛隊のいるサマワの治安を守るイギリスとオーストラリアの軍隊がサマワから撤退したいと外務省に打診してきたというニュースです。しかも1、2ヶ月前にです。首相は当然知っていたでしょう(知らなかったらそれはそれで問題)。
郵政民営化の影に、こういった問題がすべて隠れてしまったのが残念なことです。景気対策として行われてきた定率減税も廃止されるようです。自民党は「もともと特別に減税してやってきたものを元に戻すのだから、増税ではない。だから公約違反ではない」と言っていますが…。
首相は「郵政民営化によって一部の人間の持つ既得権を国民に還元する」と言ってましたが、かつてあれだけ騒がれた議員年金については未だにほとんど手つかずである、という事実は指摘しておきたいと思います。
議員年金がいらない、と言っているのではなく、本当に必要なら理解を求めればいいのです。それもしようとしないのはやはり問題であると思います。
選挙が終わって、色々と「後出し」が出てきていますが、その最たるものがこれです。
http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20050913i205.htm
要点を言えば、自衛隊のいるサマワの治安を守るイギリスとオーストラリアの軍隊がサマワから撤退したいと外務省に打診してきたというニュースです。しかも1、2ヶ月前にです。首相は当然知っていたでしょう(知らなかったらそれはそれで問題)。
郵政民営化の影に、こういった問題がすべて隠れてしまったのが残念なことです。景気対策として行われてきた定率減税も廃止されるようです。自民党は「もともと特別に減税して
首相は「郵政民営化によって一部の人間の持つ既得権を国民に還元する」と言ってましたが、かつてあれだけ騒がれた議員年金については未だにほとんど手つかずである、という事実は指摘しておきたいと思います。
議員年金がいらない、と言っているのではなく、本当に必要なら理解を求めればいいのです。それもしようとしないのはやはり問題であると思います。
消耗する日々
2005年9月6日 気になる進級発表は来週火曜日に決定。月曜日は試験なんですが。
統合講義、順調に進んでいます。というか、色んな先生がベルトコンベアに乗って次から次へと来る感じで、もうヘロヘロです。
台風が近づいてますが、大学は「暴風警報」が出ればお休み。ところが子どもたちの行っている保育園は「気象警報」が出ればお休みなので、大雨警報が出たらものすごくややこしいことになります。内陸県なので波浪警報は出ませんけれど。
-------------------------------------------------
これまでの名言
医者は「こいつイヤやな」と思った瞬間が危険。
どんな人でも診るかぎりは徹底的に診ないといけません。
どんなにあわてていても落ち着いているふりをしてください。
(麻酔科の先生が)
たとえ心電図やら血圧やら血ガスやら色々モニターしていても
患者さんが例えば「今ここが痛いんです」と教えてくれる
自覚症状に勝る情報はないと最近思うようになってきました。
統合講義、順調に進んでいます。というか、色んな先生がベルトコンベアに乗って次から次へと来る感じで、もうヘロヘロです。
台風が近づいてますが、大学は「暴風警報」が出ればお休み。ところが子どもたちの行っている保育園は「気象警報」が出ればお休みなので、大雨警報が出たらものすごくややこしいことになります。内陸県なので波浪警報は出ませんけれど。
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これまでの名言
医者は「こいつイヤやな」と思った瞬間が危険。
どんな人でも診るかぎりは徹底的に診ないといけません。
どんなにあわてていても落ち着いているふりをしてください。
(麻酔科の先生が)
たとえ心電図やら血圧やら血ガスやら色々モニターしていても
患者さんが例えば「今ここが痛いんです」と教えてくれる
自覚症状に勝る情報はないと最近思うようになってきました。
臨床講義開始
2005年9月1日 まだ進級発表がないので見切り発車です。もし進級できてなかったらアホみたいですが。
どの先生も半年後のCBT/OSCEの心配をされてました。わが校よ大丈夫か。
※CBT/OSCE
臨床実習(通称ポリクリ。BSL[Bed Side Learning]ともいう)にふさわしい知識・手技が身に付いているかどうかを4年次の最後に見る試験。全国の医学部で一斉に行う。これに合格しないと臨床実習が受けられない。コンピュータテストであるCBTと医療面接や診察手技を見るOSCEとに分かれる。私の学年から本格実施。
学長と病院長の訓示(?)、カリキュラムの説明のあとスタート。
以下ある先生のお話と私の推測。
最近医学部のカリキュラムは大きく変わっていますが、それは約15年ほど前の英国からの調査団が来日したことに由来するそうです。英国はその少し前から日本の医学生を本格的に受け容れはじめたらしいのですが、日本の医学生があまりにも何も出来ないので、調査団を作って日本の医学部の教育の実態を調査したのです。その結果
「英国としては、日本の医学生の受け入れを今後一切拒否する」
という方針が伝えられました。
自ら変わろうとせず、外圧がなければ変わらない、というのは何も医学部に限った話ではないわけで、この国が構造的に持っている問題なんだな、と改めて感じました。
CBT/OSCEの登場もまた日本的です。
そういった改革の一環として、まず厚生労働省が医師国家試験の内容を改めました。医学部の教育は文部科学省の管轄ですから手は出せませんが、国家試験は厚労省の管轄なので、これをいじれば医学部教育も変えざるを得ない(実際そうでした)という判断をしたのです。
これに怒ったのが文科省です。「お前ら何もしてないじゃないか」と言われた気がしたのでしょうか、それなら臨床実習前なら文句はなかろう、ということでモデルカリキュラムとCBT/OSCEを作っちゃった。それで「こんなの作ってやったからあとは君たちが頑張れ」と医学部に具体的な改革を丸投げしてしまった。おかげで各校は今大変なことになってます。
-------------------------------------------------------
最後に今日の名言
「腫瘍がなくなっても、患者もなくなったら意味ないですよね」
どの先生も半年後のCBT/OSCEの心配をされてました。わが校よ大丈夫か。
※CBT/OSCE
臨床実習(通称ポリクリ。BSL[Bed Side Learning]ともいう)にふさわしい知識・手技が身に付いているかどうかを4年次の最後に見る試験。全国の医学部で一斉に行う。これに合格しないと臨床実習が受けられない。コンピュータテストであるCBTと医療面接や診察手技を見るOSCEとに分かれる。私の学年から本格実施。
学長と病院長の訓示(?)、カリキュラムの説明のあとスタート。
以下ある先生のお話と私の推測。
最近医学部のカリキュラムは大きく変わっていますが、それは約15年ほど前の英国からの調査団が来日したことに由来するそうです。英国はその少し前から日本の医学生を本格的に受け容れはじめたらしいのですが、日本の医学生があまりにも何も出来ないので、調査団を作って日本の医学部の教育の実態を調査したのです。その結果
「英国としては、日本の医学生の受け入れを今後一切拒否する」
という方針が伝えられました。
自ら変わろうとせず、外圧がなければ変わらない、というのは何も医学部に限った話ではないわけで、この国が構造的に持っている問題なんだな、と改めて感じました。
CBT/OSCEの登場もまた日本的です。
そういった改革の一環として、まず厚生労働省が医師国家試験の内容を改めました。医学部の教育は文部科学省の管轄ですから手は出せませんが、国家試験は厚労省の管轄なので、これをいじれば医学部教育も変えざるを得ない(実際そうでした)という判断をしたのです。
これに怒ったのが文科省です。「お前ら何もしてないじゃないか」と言われた気がしたのでしょうか、それなら臨床実習前なら文句はなかろう、ということでモデルカリキュラムとCBT/OSCEを作っちゃった。それで「こんなの作ってやったからあとは君たちが頑張れ」と医学部に具体的な改革を丸投げしてしまった。おかげで各校は今大変なことになってます。
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最後に今日の名言
「腫瘍がなくなっても、患者もなくなったら意味ないですよね」
選挙
2005年8月31日 ある方のブログで、某総理の選挙手法を「悪質リフォーム詐欺」と言っておられるのを見て、
それだ!
と思いました。
郵政民営化賛成という契約書を用意して、国民にハンコをつかせる。でも契約書のつづきには、イラク自衛隊派遣の継続、年金、医療保険、税金…といった重要事項がずらずらと小さい字で書いてある。「こんなことまで同意したつもりはない」と文句を言っても
「ハンコ押してあるでしょ」
少なくともマニフェストは全部読んでから投票しましょう。
それだ!
と思いました。
郵政民営化賛成という契約書を用意して、国民にハンコをつかせる。でも契約書のつづきには、イラク自衛隊派遣の継続、年金、医療保険、税金…といった重要事項がずらずらと小さい字で書いてある。「こんなことまで同意したつもりはない」と文句を言っても
「ハンコ押してあるでしょ」
少なくともマニフェストは全部読んでから投票しましょう。
リラックマ生活―だらだらまいにちのススメ
2005年8月31日 読書あらら2
2005年8月28日 どちらも正義感の強い方ですから、引くに引けなくなった感がありますが…。私に言えるのは、どうか冷静になってください、と言うことだけです。
物事は必ず色んな側面を持っています。自分ではそんなつもりではない、と思っていても、見る人によっては違うことを感じたりするものです。そこで「そんなつもりはないんだ」と強弁しても、相手の気持ちが動かない限り暖簾に腕押しになってしんどくなるだけです。その意味ではお気の毒だったと思います。
ただ、自分には「他人には見えるが、自分には見えない自分」というものが確かに存在しています。他人からのメッセージは、そういった自分には見えない自分を見せてくれる可能性があります。
誰にでも矜持はあります。自分を守るためには「そんなつもりはない」と言うことも必要ですし、それはそれで意味のあることだと思いますが、そこで立ち止まって「本当にそう見えるのだろうか?」と自分を振り返る余裕もあっていいのではないかと思うし、そのくらいの余裕があれば体に変調をきたされることもなかったと思います。
「医学部に入ったくらいで人生の成功者のよう」という表現が妥当であるかどうかは分かりません。誰でも目指せば入れるわけではありませんからその意味では成功したと言えますし、その一方で、所詮は学生であってまだ医師になるには先があり、医師として成功するかどうか分かりません(何をもって成功とするか、という点には議論があるでしょう)から成功なんてとんでもない、という考え方ももっともです。
ただ、私の周りを見ても(注:私も医学生です)、医学生=成功者、という見方をする人は残念ながらそれなりにいます。あと「いい年をして何をしているんだ」と思っている人も多いです。今の選挙の議論を見て感じることでもありますが、物事をニュートラルに見てくれる人は少なくなってきて、「あれかこれか」という二元論的な考えに身を置く人が最近特に多いように思います。
医学生として学生生活について書かれることは意義のあることだと思うし、社会に対するresponsibilityを果たすという意味でもどんどんなさるべきだと思います。ただ自分が感じて欲しいと思うように人は感じてくれないし、むしろ全く逆のことを感じる人がいる、というリスクを自覚しておかれることは必要だと感じます(釈迦に説法かも知れませんが、ご容赦下さい)。
物事は必ず色んな側面を持っています。自分ではそんなつもりではない、と思っていても、見る人によっては違うことを感じたりするものです。そこで「そんなつもりはないんだ」と強弁しても、相手の気持ちが動かない限り暖簾に腕押しになってしんどくなるだけです。その意味ではお気の毒だったと思います。
ただ、自分には「他人には見えるが、自分には見えない自分」というものが確かに存在しています。他人からのメッセージは、そういった自分には見えない自分を見せてくれる可能性があります。
誰にでも矜持はあります。自分を守るためには「そんなつもりはない」と言うことも必要ですし、それはそれで意味のあることだと思いますが、そこで立ち止まって「本当にそう見えるのだろうか?」と自分を振り返る余裕もあっていいのではないかと思うし、そのくらいの余裕があれば体に変調をきたされることもなかったと思います。
「医学部に入ったくらいで人生の成功者のよう」という表現が妥当であるかどうかは分かりません。誰でも目指せば入れるわけではありませんからその意味では成功したと言えますし、その一方で、所詮は学生であってまだ医師になるには先があり、医師として成功するかどうか分かりません(何をもって成功とするか、という点には議論があるでしょう)から成功なんてとんでもない、という考え方ももっともです。
ただ、私の周りを見ても(注:私も医学生です)、医学生=成功者、という見方をする人は残念ながらそれなりにいます。あと「いい年をして何をしているんだ」と思っている人も多いです。今の選挙の議論を見て感じることでもありますが、物事をニュートラルに見てくれる人は少なくなってきて、「あれかこれか」という二元論的な考えに身を置く人が最近特に多いように思います。
医学生として学生生活について書かれることは意義のあることだと思うし、社会に対するresponsibilityを果たすという意味でもどんどんなさるべきだと思います。ただ自分が感じて欲しいと思うように人は感じてくれないし、むしろ全く逆のことを感じる人がいる、というリスクを自覚しておかれることは必要だと感じます(釈迦に説法かも知れませんが、ご容赦下さい)。
Rozen Maiden 5巻
2005年8月27日 アニメ・マンガ
Rozen Maidenは、今大人気ですが、はまってしまいました。設定、ツボをおさえてますね。
基本的にはド○え○んと同じ、「万能異世界居候もの」なんですけど、呪術系の怪しい通販に手を出し、姉に暴言を吐く引きこもりの少年である主人公と、人間のように動くアンティークドールであり、お姫様きどりで主人公を弄ぶ居候という設定が斬新です。1巻ぐらいでは画も不安定でしたが、この巻はとても綺麗です。
基本的にはド○え○んと同じ、「万能異世界居候もの」なんですけど、呪術系の怪しい通販に手を出し、姉に暴言を吐く引きこもりの少年である主人公と、人間のように動くアンティークドールであり、お姫様きどりで主人公を弄ぶ居候という設定が斬新です。1巻ぐらいでは画も不安定でしたが、この巻はとても綺麗です。
新規国債発行額は30兆以内
2005年8月22日が某首相の公約であった。
平成13年度 30.0兆
平成14年度 35.0兆
平成15年度 35.3兆
平成16年度 36.6兆(補正予算後ベース)
平成17年度 34.4兆(予算)
国債発行残高は平成13→17年度で392兆→538兆に増加。国民一人あたり約120万円の借金が増えたことになる。
出典;財務省発行「日本国債ガイドブック2005」
http://www.mof.go.jp/jouhou/kokusai/jgb_guidebook2005j.pdf
ちなみに、この公約を巡って、某首相が「この程度の約束を守れなかったのは大したことではない」と述べられたのは有名な話。
平成13年度 30.0兆
平成14年度 35.0兆
平成15年度 35.3兆
平成16年度 36.6兆(補正予算後ベース)
平成17年度 34.4兆(予算)
国債発行残高は平成13→17年度で392兆→538兆に増加。国民一人あたり約120万円の借金が増えたことになる。
出典;財務省発行「日本国債ガイドブック2005」
http://www.mof.go.jp/jouhou/kokusai/jgb_guidebook2005j.pdf
ちなみに、この公約を巡って、某首相が「この程度の約束を守れなかったのは大したことではない」と述べられたのは有名な話。
郵政民営化
2005年8月21日 私の父は元国鉄の社員で、新幹線の整備・清掃事業に関わっていた。
国鉄が民営化されてJRになったとき、父の職場は関連子会社という『民間』会社に生まれ変わった。しかし業務内容は一切変わりなく、他の民間会社に業務を委託すると言うことは私が聴く限りなかった。
それどころか、経営の多角化と称して、ハウスクリーニングやビルの清掃事業を立ち上げた。軌道に乗ったかどうかは知らないが、本来他の民間企業が行っていた仕事を奪いに行ったわけである。
身内で固めた多くの民間子会社に事業を独占させるばかりでなく、逆に民間の仕事を奪い続けて決して輪の外に出ようとしない。これが某総理の言う「民間にできる事は民間に」という言葉の意味である。
国鉄が民営化されてJRになったとき、父の職場は関連子会社という『民間』会社に生まれ変わった。しかし業務内容は一切変わりなく、他の民間会社に業務を委託すると言うことは私が聴く限りなかった。
それどころか、経営の多角化と称して、ハウスクリーニングやビルの清掃事業を立ち上げた。軌道に乗ったかどうかは知らないが、本来他の民間企業が行っていた仕事を奪いに行ったわけである。
身内で固めた多くの民間子会社に事業を独占させるばかりでなく、逆に民間の仕事を奪い続けて決して輪の外に出ようとしない。これが某総理の言う「民間にできる事は民間に」という言葉の意味である。
甲子園の決勝も見たかったのですが(笑)、子どものお供で行きました。
子どもがいるのでポケモンの映画は全部見ていますが、今までの中で一番?な映画でした。ポケモンの映画はテーマが結構重いのが特徴で、大人でもある程度見応えがあります。それを中和するために例年はドタバタ風の短編を同時に作っていたのですが今年はそれもありませんでした。
私の子どもは上がもうすぐ6歳ですが、劇場を見回してみると小学校高学年から中学生くらいが多くなっています。以前は小学校低学年や幼稚園児あたりがかなり見られたことから考えれば、ポケモンのファンの年齢層は確実に上がっています。上映時間も2時間近くあり6歳には少しキツイです。
内容はあまり詳しくは書けませんが、タイトルにもあるポケモンのミュウが「マッチポンプ」的な役割を演じていて(何を考えているのか分からないところがこのポケモンの売りであることは確かなのですが)、自分で問題を作っておきながら解決の過程で犠牲を要求するという点が何とも不可解で、後味の悪い印象を持ちました。
設定自体は面白く、伏線を張ってラストまで引っ張っていけば面白かったのですが、新キャラを登場させて科学の力であっさり謎を解くという非常に分かりやすい展開(笑)。あと「免疫」って何、と子どもに聞かれて説明に苦労しました(疲)。以前に比べると対象年齢がかなり上がってしまった感がありますが、かといって子ども向けを意識していないわけでもなく、何とも中途半端な印象です。やはり以前のように2本作るという形式の方がいいようにも思います。
でも子どもにはそんなこと関係ないようで、「ルカリオかっこいい!」と言ってました。だからいいんですけどね。
子どもがいるのでポケモンの映画は全部見ていますが、今までの中で一番?な映画でした。ポケモンの映画はテーマが結構重いのが特徴で、大人でもある程度見応えがあります。それを中和するために例年はドタバタ風の短編を同時に作っていたのですが今年はそれもありませんでした。
私の子どもは上がもうすぐ6歳ですが、劇場を見回してみると小学校高学年から中学生くらいが多くなっています。以前は小学校低学年や幼稚園児あたりがかなり見られたことから考えれば、ポケモンのファンの年齢層は確実に上がっています。上映時間も2時間近くあり6歳には少しキツイです。
内容はあまり詳しくは書けませんが、タイトルにもあるポケモンのミュウが「マッチポンプ」的な役割を演じていて(何を考えているのか分からないところがこのポケモンの売りであることは確かなのですが)、自分で問題を作っておきながら解決の過程で犠牲を要求するという点が何とも不可解で、後味の悪い印象を持ちました。
設定自体は面白く、伏線を張ってラストまで引っ張っていけば面白かったのですが、新キャラを登場させて科学の力であっさり謎を解くという非常に分かりやすい展開(笑)。あと「免疫」って何、と子どもに聞かれて説明に苦労しました(疲)。以前に比べると対象年齢がかなり上がってしまった感がありますが、かといって子ども向けを意識していないわけでもなく、何とも中途半端な印象です。やはり以前のように2本作るという形式の方がいいようにも思います。
でも子どもにはそんなこと関係ないようで、「ルカリオかっこいい!」と言ってました。だからいいんですけどね。
Matthews, 20:1-16
2005年8月12日 ある方の日記を拝見して、思うところがあったので。
この一節は聖書でも確かにわかりにくいところだが、私は「神は私たちの何を見ておられるか」という事を示す話と理解していた。
私がグダグタ解説するよりも、先人が素晴らしい言葉を残している。
「確かに、正義はあなたの口実かも知れません。しかし、私たちの内の誰ひとりとして、正義の内に救いを見いだそうとしても、見いだすことが出来ないことを考えてください。私たちに出来ることは、憐れみをお願いする事だけです」---William Shakespeare
他の方の日記には少し違った観点から書かれており、「こんな見方もあるのか」と参考になった。
この一節は聖書でも確かにわかりにくいところだが、私は「神は私たちの何を見ておられるか」という事を示す話と理解していた。
天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。
私がグダグタ解説するよりも、先人が素晴らしい言葉を残している。
「確かに、正義はあなたの口実かも知れません。しかし、私たちの内の誰ひとりとして、正義の内に救いを見いだそうとしても、見いだすことが出来ないことを考えてください。私たちに出来ることは、憐れみをお願いする事だけです」---William Shakespeare
他の方の日記には少し違った観点から書かれており、「こんな見方もあるのか」と参考になった。
問題の判決について
2005年7月29日1.採尿管の挿入について
尿検査をすると言われたときには、拒絶をしているのに、止血のために縫合手術をするが、その際に採尿管を入れるという説明には「拒絶することなく」麻酔を受けたとあります。
何とも微妙な表現ですね。医師がどのように説明したのかが気になりますね。この説明では被告が採尿管は採尿して尿検査をするためでなく、手術のために必要な措置であると解釈した可能性があります。また拒絶がなかったから同意したとみなしていいものかどうかは、議論が分かれるところでしょう。
2.薬物検査について
医師は被告に元々血尿の有無を見るためと説明していたのですから、被告の承諾は得ずに薬物検査をしたわけです。これについて判決は、「救急患者に対する治療の目的で,被告人から尿を採取し,採取した尿について薬物検査を行ったものであって,医療上の必要があったと認められる」としていますが、ではこの状況で薬物検査に陽性が出た場合、どのような「救急患者に対する治療」がなされたのかが興味深いところです。
3.警察への報告について
「同医師は,その後来院した被告人の両親に対し,被告人の傷の程度等について説明した上,被告人の尿から覚せい剤反応があったことを告げ,国家公務員として警察に報告しなければならないと説明したところ,被告人の両親も最終的にこれを了解した様子であったことから」とありますが、
(1)本人でなく両親から同意を得ようとしている。麻酔が切れてからまず本人に説明するべきではなかったか。
(2)「国家公務員として警察に報告しなければならない」というのはどのような法的根拠に基づくのか。
(3)「被告人の両親も最終的にこれを了解した様子」という表現は曖昧すぎる。はっきり了解したのではないのか。
---------------------------------------------------------
全体として曖昧な印象があり、どうもすっきりしない判決です。一読した限り、医師の説明が不足していたのではないか、という疑念が捨てられません。この医師は、結局どれ一つとして明快な同意を得られなかった訳で、違法かどうかというより、この医師の患者に対する姿勢に問題はなかったのだろうか、という疑問を感じます。
あと個人的には、もし医師の行為が違法と判断された場合、被告の尿の鑑定結果の証拠能力がどうなるのかは知りたいと思います。というのは現在の判例では「公人が違法に入手した証拠は排除される」という判例はありますが、「医師のような私人が違法に入手した証拠」の証拠能力については判例がありません。
この事件の場合、警察官はちゃんと令状を取って尿を入手しているわけですから、警察官の行為自体は違法ではありません。とすれば、医師の行為が仮に守秘義務違反であったとしても、警察官の行為に違法性がなければ証拠能力がある、という議論が成立する可能性があるように思えます。今回は医師の行為自体に違法性がなかったと判断したのでそこまでは踏み込まれませんでしたが、この点については判断して欲しかったような気がします。
尿検査をすると言われたときには、拒絶をしているのに、止血のために縫合手術をするが、その際に採尿管を入れるという説明には「拒絶することなく」麻酔を受けたとあります。
何とも微妙な表現ですね。医師がどのように説明したのかが気になりますね。この説明では被告が採尿管は採尿して尿検査をするためでなく、手術のために必要な措置であると解釈した可能性があります。また拒絶がなかったから同意したとみなしていいものかどうかは、議論が分かれるところでしょう。
2.薬物検査について
医師は被告に元々血尿の有無を見るためと説明していたのですから、被告の承諾は得ずに薬物検査をしたわけです。これについて判決は、「救急患者に対する治療の目的で,被告人から尿を採取し,採取した尿について薬物検査を行ったものであって,医療上の必要があったと認められる」としていますが、ではこの状況で薬物検査に陽性が出た場合、どのような「救急患者に対する治療」がなされたのかが興味深いところです。
3.警察への報告について
「同医師は,その後来院した被告人の両親に対し,被告人の傷の程度等について説明した上,被告人の尿から覚せい剤反応があったことを告げ,国家公務員として警察に報告しなければならないと説明したところ,被告人の両親も最終的にこれを了解した様子であったことから」とありますが、
(1)本人でなく両親から同意を得ようとしている。麻酔が切れてからまず本人に説明するべきではなかったか。
(2)「国家公務員として警察に報告しなければならない」というのはどのような法的根拠に基づくのか。
(3)「被告人の両親も最終的にこれを了解した様子」という表現は曖昧すぎる。はっきり了解したのではないのか。
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全体として曖昧な印象があり、どうもすっきりしない判決です。一読した限り、医師の説明が不足していたのではないか、という疑念が捨てられません。この医師は、結局どれ一つとして明快な同意を得られなかった訳で、違法かどうかというより、この医師の患者に対する姿勢に問題はなかったのだろうか、という疑問を感じます。
あと個人的には、もし医師の行為が違法と判断された場合、被告の尿の鑑定結果の証拠能力がどうなるのかは知りたいと思います。というのは現在の判例では「公人が違法に入手した証拠は排除される」という判例はありますが、「医師のような私人が違法に入手した証拠」の証拠能力については判例がありません。
この事件の場合、警察官はちゃんと令状を取って尿を入手しているわけですから、警察官の行為自体は違法ではありません。とすれば、医師の行為が仮に守秘義務違反であったとしても、警察官の行為に違法性がなければ証拠能力がある、という議論が成立する可能性があるように思えます。今回は医師の行為自体に違法性がなかったと判断したのでそこまでは踏み込まれませんでしたが、この点については判断して欲しかったような気がします。
問題の判決
2005年7月29日-----------------------------------------------------------
なお,所論にかんがみ,被告人の尿に関する鑑定書等の証拠能力について職権で判断する。
1 原判決及びその是認する第1審判決の認定によれば,被告人の尿の入手経過は,次のとおりである。
(1) 被告人は,平成15年4月18日,同せい相手と口論となり,ナイフにより右腰背部に刺創を負い,同日午後7時55分ころ,東京都世田谷区内の病院で応急措置を受けたものの,出血が多く,救急車で国立病院東京医療センターに搬送された。被告人は,同日午後8時30分ころ,上記医療センターに到着した際には,意識は清明であったものの,少し興奮し,「痛くないの,帰らせて。」,「彼に振り向いてほしくて刺したのに,結局みんなに無視されている。」などと述べ,担当医師が被告人を診察したところ,その右腰背部刺創の長さが約3?であり,着衣に多量の血液が付着していたのを認めた。
(2) 同医師は,上記刺創が腎臓に達していると必ず血尿が出ることから,被告人に尿検査の実施について説明したが,被告人は,強くこれを拒んだ。同医師は,先にCT検査等の画像診断を実施したところ,腎臓のそばに空気が入っており,腹腔内の出血はなさそうではあったものの,急性期のためいまだ出血していないことも十分にあり得ると考え,やはり採尿が必要であると判断し,その旨被告人を説得した。被告人は,もう帰るなどと言ってこれを聞かなかったが,同医師は,なおも約30分間にわたって被告人に対し説得を続け,最終的に止血のために被告人に麻酔をかけて縫合手術を実施することとし,その旨被告人に説明し,その際に採尿管を入れることを被告人に告げたところ,被告人は,拒絶することなく,麻酔の注射を受けた。
(3) 同医師は,麻酔による被告人の睡眠中に,縫合手術を実施した上,カテーテルを挿入して採尿を行った。採取した尿から血尿は出ていなかったものの,同医師は,被告人が興奮状態にあり,刃物で自分の背中を刺したと説明していることなどから,薬物による影響の可能性を考え,簡易な薬物検査を実施したところ,アンフェタミンの陽性反応が出た。
(4) 同医師は,その後来院した被告人の両親に対し,被告人の傷の程度等について説明した上,被告人の尿から覚せい剤反応があったことを告げ,国家公務員として警察に報告しなければならないと説明したところ,被告人の両親も最終的にこれを了解した様子であったことから,被告人の尿から覚せい剤反応があったことを警視庁玉川警察署の警察官に通報した。
(5) 同警察署の警察官は,同月21日,差押許可状の発付を得て,これに基づいて同医師が採取した被告人の尿を差し押さえた。
2 所論は,担当医師が被告人から尿を採取して薬物検査をした行為は被告人の承諾なく強行された医療行為であって,このような行為をする医療上の必要もない上,同医師が被告人の尿中から覚せい剤反応が出たことを警察官に通報した行為は,医師の守秘義務に違反しており,しかも,警察官が同医師の上記行為を利用して被告人の尿を押収したものであるから,令状主義の精神に反する重大な違法があり,被告人の尿に関する鑑定書等の証拠能力はないという。
しかしながら,上記の事実関係の下では,同医師は,救急患者に対する治療の目的で,被告人から尿を採取し,採取した尿について薬物検査を行ったものであって,医療上の必要があったと認められるから,たとえ同医師がこれにつき被告人から承諾を得ていたと認められないとしても,同医師のした上記行為は,医療行為として違法であるとはいえない。
また,医師が,必要な治療又は検査の過程で採取した患者の尿から違法な薬物の成分を検出した場合に,これを捜査機関に通報することは,正当行為として許容されるものであって,医師の守秘義務に違反しないというべきである。
以上によると,警察官が被告人の尿を入手した過程に違法はないことが明らかであるから,同医師のした上記各行為が違法であることを前提に被告人の尿に関する鑑定書等の証拠能力を否定する所論は,前提を欠き,これらの証拠の証拠能力を肯定した原判断は,正当として是認することができる。
よって,刑訴法414条,386条1項3号により,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 横尾和子 裁判官 甲斐中辰夫 裁判官 泉 ?治 裁判官 島田仁郎 裁判官 才口千晴)
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なお,所論にかんがみ,被告人の尿に関する鑑定書等の証拠能力について職権で判断する。
1 原判決及びその是認する第1審判決の認定によれば,被告人の尿の入手経過は,次のとおりである。
(1) 被告人は,平成15年4月18日,同せい相手と口論となり,ナイフにより右腰背部に刺創を負い,同日午後7時55分ころ,東京都世田谷区内の病院で応急措置を受けたものの,出血が多く,救急車で国立病院東京医療センターに搬送された。被告人は,同日午後8時30分ころ,上記医療センターに到着した際には,意識は清明であったものの,少し興奮し,「痛くないの,帰らせて。」,「彼に振り向いてほしくて刺したのに,結局みんなに無視されている。」などと述べ,担当医師が被告人を診察したところ,その右腰背部刺創の長さが約3?であり,着衣に多量の血液が付着していたのを認めた。
(2) 同医師は,上記刺創が腎臓に達していると必ず血尿が出ることから,被告人に尿検査の実施について説明したが,被告人は,強くこれを拒んだ。同医師は,先にCT検査等の画像診断を実施したところ,腎臓のそばに空気が入っており,腹腔内の出血はなさそうではあったものの,急性期のためいまだ出血していないことも十分にあり得ると考え,やはり採尿が必要であると判断し,その旨被告人を説得した。被告人は,もう帰るなどと言ってこれを聞かなかったが,同医師は,なおも約30分間にわたって被告人に対し説得を続け,最終的に止血のために被告人に麻酔をかけて縫合手術を実施することとし,その旨被告人に説明し,その際に採尿管を入れることを被告人に告げたところ,被告人は,拒絶することなく,麻酔の注射を受けた。
(3) 同医師は,麻酔による被告人の睡眠中に,縫合手術を実施した上,カテーテルを挿入して採尿を行った。採取した尿から血尿は出ていなかったものの,同医師は,被告人が興奮状態にあり,刃物で自分の背中を刺したと説明していることなどから,薬物による影響の可能性を考え,簡易な薬物検査を実施したところ,アンフェタミンの陽性反応が出た。
(4) 同医師は,その後来院した被告人の両親に対し,被告人の傷の程度等について説明した上,被告人の尿から覚せい剤反応があったことを告げ,国家公務員として警察に報告しなければならないと説明したところ,被告人の両親も最終的にこれを了解した様子であったことから,被告人の尿から覚せい剤反応があったことを警視庁玉川警察署の警察官に通報した。
(5) 同警察署の警察官は,同月21日,差押許可状の発付を得て,これに基づいて同医師が採取した被告人の尿を差し押さえた。
2 所論は,担当医師が被告人から尿を採取して薬物検査をした行為は被告人の承諾なく強行された医療行為であって,このような行為をする医療上の必要もない上,同医師が被告人の尿中から覚せい剤反応が出たことを警察官に通報した行為は,医師の守秘義務に違反しており,しかも,警察官が同医師の上記行為を利用して被告人の尿を押収したものであるから,令状主義の精神に反する重大な違法があり,被告人の尿に関する鑑定書等の証拠能力はないという。
しかしながら,上記の事実関係の下では,同医師は,救急患者に対する治療の目的で,被告人から尿を採取し,採取した尿について薬物検査を行ったものであって,医療上の必要があったと認められるから,たとえ同医師がこれにつき被告人から承諾を得ていたと認められないとしても,同医師のした上記行為は,医療行為として違法であるとはいえない。
また,医師が,必要な治療又は検査の過程で採取した患者の尿から違法な薬物の成分を検出した場合に,これを捜査機関に通報することは,正当行為として許容されるものであって,医師の守秘義務に違反しないというべきである。
以上によると,警察官が被告人の尿を入手した過程に違法はないことが明らかであるから,同医師のした上記各行為が違法であることを前提に被告人の尿に関する鑑定書等の証拠能力を否定する所論は,前提を欠き,これらの証拠の証拠能力を肯定した原判断は,正当として是認することができる。
よって,刑訴法414条,386条1項3号により,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 横尾和子 裁判官 甲斐中辰夫 裁判官 泉 ?治 裁判官 島田仁郎 裁判官 才口千晴)
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高橋悠治/ケージ:プリペアド・ピアノのためのソナタとイン…
2005年7月22日 趣味
現代音楽が苦手な人は多いが、それは聴き方がまずいからだと思う。
以前も書いたことがあるが、クラシックに限らず多くの音楽はさまざまな拘束の元に成立している。人間の耳に心地よい響き、和音とその進行、メロディの作り方、どれをとっても拘束だらけである。拘束、といって悪ければ「お約束」といってもいい。どの作曲家も、与えられた「お約束」の中でどう自分を表現するかに腐心する。
なぜそんな「お約束」があるのか、と言うことであるが、それは恐らく「聴く方が安心して音楽を聴くため」であると思う。先がどうなるか分からないのでは安心して音楽に身をゆだねることはできない。人間には経験的に得られた美的な枠組みがあり、その中に音楽が収まっていれば人々は音楽を安心して聴くことができる。作る側からしても、そういった美的枠組みを遵守した方が、多くの人に受け容れられることにつながる。「お約束」を守ることがお互いにとって都合がいいのである。
20世紀の音楽は、そういった「お約束」から音楽を解放し、音楽を成立させるための新たな枠組みを作り出す壮大な実験であったと言える。
つまり、現代音楽は自分の美的経験の枠組みの中で聴いても何も分からないのである。そのような枠組みとは違う枠組みで構成されているのであるから、当然のことであろう。
逆に言えば、それが現代音楽の正しい聴き方を暗示している。作曲家がどんな理由で音を選び、どのような枠組みで音楽を構成しようとしているかを考えながら聴くのが正しい聴き方である。単に音の流れに身を委ねるのではなく、作曲家が何を考えて音を決めていったかを想像する。そして、音によって作曲家が何を考えたのかが十分表現されているかどうかが、その音楽の評価になるのである。
だから現代音楽を聴くのはとても疲れる。音にうっとりと身を委ねて聴くのではなく、もっと積極的に聴いていかなければならないからである。逆に言えばそこが現代音楽の魅力であると思う。
ジョン・ケージは、生涯の間に何回も「彼の枠組み」を変えている。その変遷はピカソを連想させるところもあるが、ここでは深く触れない。たとえば有名な「4分33秒」は、沈黙によって意図的な音の発生を拒否し、偶然起こる音や環境音のような「でたらめに決まる」音によって音楽を構成しようとした試みである。
このCDでは、彼は「Prepared Piano」という新しい考えを試している。その仕掛けについては敢えてここでは触れない。その仕掛けを想像するのが現代音楽の聴き方であるからである。
以前も書いたことがあるが、クラシックに限らず多くの音楽はさまざまな拘束の元に成立している。人間の耳に心地よい響き、和音とその進行、メロディの作り方、どれをとっても拘束だらけである。拘束、といって悪ければ「お約束」といってもいい。どの作曲家も、与えられた「お約束」の中でどう自分を表現するかに腐心する。
なぜそんな「お約束」があるのか、と言うことであるが、それは恐らく「聴く方が安心して音楽を聴くため」であると思う。先がどうなるか分からないのでは安心して音楽に身をゆだねることはできない。人間には経験的に得られた美的な枠組みがあり、その中に音楽が収まっていれば人々は音楽を安心して聴くことができる。作る側からしても、そういった美的枠組みを遵守した方が、多くの人に受け容れられることにつながる。「お約束」を守ることがお互いにとって都合がいいのである。
20世紀の音楽は、そういった「お約束」から音楽を解放し、音楽を成立させるための新たな枠組みを作り出す壮大な実験であったと言える。
つまり、現代音楽は自分の美的経験の枠組みの中で聴いても何も分からないのである。そのような枠組みとは違う枠組みで構成されているのであるから、当然のことであろう。
逆に言えば、それが現代音楽の正しい聴き方を暗示している。作曲家がどんな理由で音を選び、どのような枠組みで音楽を構成しようとしているかを考えながら聴くのが正しい聴き方である。単に音の流れに身を委ねるのではなく、作曲家が何を考えて音を決めていったかを想像する。そして、音によって作曲家が何を考えたのかが十分表現されているかどうかが、その音楽の評価になるのである。
だから現代音楽を聴くのはとても疲れる。音にうっとりと身を委ねて聴くのではなく、もっと積極的に聴いていかなければならないからである。逆に言えばそこが現代音楽の魅力であると思う。
ジョン・ケージは、生涯の間に何回も「彼の枠組み」を変えている。その変遷はピカソを連想させるところもあるが、ここでは深く触れない。たとえば有名な「4分33秒」は、沈黙によって意図的な音の発生を拒否し、偶然起こる音や環境音のような「でたらめに決まる」音によって音楽を構成しようとした試みである。
このCDでは、彼は「Prepared Piano」という新しい考えを試している。その仕掛けについては敢えてここでは触れない。その仕掛けを想像するのが現代音楽の聴き方であるからである。