現代音楽が苦手な人は多いが、それは聴き方がまずいからだと思う。

 以前も書いたことがあるが、クラシックに限らず多くの音楽はさまざまな拘束の元に成立している。人間の耳に心地よい響き、和音とその進行、メロディの作り方、どれをとっても拘束だらけである。拘束、といって悪ければ「お約束」といってもいい。どの作曲家も、与えられた「お約束」の中でどう自分を表現するかに腐心する。

 なぜそんな「お約束」があるのか、と言うことであるが、それは恐らく「聴く方が安心して音楽を聴くため」であると思う。先がどうなるか分からないのでは安心して音楽に身をゆだねることはできない。人間には経験的に得られた美的な枠組みがあり、その中に音楽が収まっていれば人々は音楽を安心して聴くことができる。作る側からしても、そういった美的枠組みを遵守した方が、多くの人に受け容れられることにつながる。「お約束」を守ることがお互いにとって都合がいいのである。

 20世紀の音楽は、そういった「お約束」から音楽を解放し、音楽を成立させるための新たな枠組みを作り出す壮大な実験であったと言える。

 つまり、現代音楽は自分の美的経験の枠組みの中で聴いても何も分からないのである。そのような枠組みとは違う枠組みで構成されているのであるから、当然のことであろう。

 逆に言えば、それが現代音楽の正しい聴き方を暗示している。作曲家がどんな理由で音を選び、どのような枠組みで音楽を構成しようとしているかを考えながら聴くのが正しい聴き方である。単に音の流れに身を委ねるのではなく、作曲家が何を考えて音を決めていったかを想像する。そして、音によって作曲家が何を考えたのかが十分表現されているかどうかが、その音楽の評価になるのである。

 だから現代音楽を聴くのはとても疲れる。音にうっとりと身を委ねて聴くのではなく、もっと積極的に聴いていかなければならないからである。逆に言えばそこが現代音楽の魅力であると思う。

 ジョン・ケージは、生涯の間に何回も「彼の枠組み」を変えている。その変遷はピカソを連想させるところもあるが、ここでは深く触れない。たとえば有名な「4分33秒」は、沈黙によって意図的な音の発生を拒否し、偶然起こる音や環境音のような「でたらめに決まる」音によって音楽を構成しようとした試みである。

 このCDでは、彼は「Prepared Piano」という新しい考えを試している。その仕掛けについては敢えてここでは触れない。その仕掛けを想像するのが現代音楽の聴き方であるからである。
 椿姫は現在でこそ3大オペラの一つとして数えられるが、1853年の初演では大失敗に終わった作品である。主人公ヴィオレッタは実在の人物がモデルであり、作曲者ヴェルディは「優雅な容姿と情熱的な声を持った若手にやらせるべきだ」と劇場側に主張した。しかし実際に起用されたのは体重が130kg(ホンマかいな…)もある巨漢のソプラノで、最後に結核で死ぬとはとても思えなかったそうである。

 だが私は(それもあるだろうが)少し違う見方をしている。このオペラは第一幕こそ伝統的なオペラの形式に則って書かれているが、第2幕の途中(ヴィオレッタとジェルモンの二重奏あたり)からリリックな声と、どちらかと言えば劇の表現に近い演技力と表現力が必要になってくる。つまり今までになかった革新的な手法を用いたために当時の聴衆に受け容れられなかったのではないか、と思っている。

 このオペラも色々聴いたが、ヴェルディの言う「優雅な容姿と情熱的な声を持った」歌手は、私の聴く限りマリア・カラス以外にはあり得ない。だが残念ながらカラスの全盛期の録音には満足のいくものがない。
 しかし最近になってようやく(今はマダマダだけど)カラスの領域に近づきうる可能性を持つ歌手が出てきた。デミトラ・テオドッシュウという名前はちょっと覚えておいた方がいいのかも知れない。

 ちなみに「椿姫」は原作の小説の題名である「椿を持った女」からの訳であるが、ヴェルディがつけた「La Traviata」という題は「道を踏み外した女」という意味である。内容から言ってこっちの方がぴったりだと思う。
というわけで(謎)、元に戻ります。

 とにかく第一楽章最後の英雄の主題の消失は、当時のトランペットの技術的な制約のためやむなく取られた処置、と解釈され、現代のオーケストラではこの部分はトランペットが引き続き演奏することになっている。

 しかし、その一方でこれは作曲者の作為、と捉える向きもある。第一楽章最後の英雄の主題は二度繰り返されるが、そのうち最初の一回は実はトランペットで演奏可能なのである。ならば最初の主題を最後まで吹き終えてから他の楽器に渡せばいいのに、実際の楽譜は主題の途中で他の楽器に引き渡している。だから意図的なものではないか、と言われるのである。

 今回紹介する18世紀オーケストラの演奏は、この消失を楽譜通りに再現している。これは、作曲家の書いた楽譜を忠実に再現しようと言う試みであり、面白い。この一枚が出てからは度々このような試みが見られるようになった。

 また、この一枚はベートーヴェンのメトロノーム指示を忠実に守ろうとしている事でも有名である。メトロノームはベートーヴェンの時代にちょうど開発され、新しい物好きのベートーヴェンはメトロノームによる速度指示を好んで用いた。ところがベートーヴェンのメトロノームはどうも正しく動かなかったらしく、楽譜の指定通りに演奏するとかなり速い演奏になってしまう。現在ではベートーヴェンの指示より2割くらい遅いテンポで演奏されるのが一般的である。

 この第3番の第4楽章は最も有名な例で、楽器の改良や演奏技術が当時に比べてめざましく進歩した現代でも、まず演奏不可能な高速テンポである。これはメトロノームの狂いの他にベートーヴェン自身が書き間違えたためにこうなったというのが定説である。

 しかし、この一枚はそのかなり速いテンポに近づけようとしている。実際にメトロノームで計ってみると少し遅いが、頑張っているのは確かである。
 先日14日に他界されたカルロ・マリア・ジュリーニと言えば、「うたごころ」という使い古された彼に対する批評のごとく、レガート(音を滑らかにつなぐ奏法)とカンタービレ("歌うように"という表現指示)を多用したイタリア人らしい華麗さが売りであった。

 その点はカラヤンも同じであったのだが、カラヤンは練習風景の記録を見ると「えっ、こんなところで?」というところでレガートを使っていることがあった。カラヤンなりの計算があってのことであるが、どうにも無理があるというか、狙いすぎというか、そんなところがあった。
 しかしジュリーニは、例えて言うならば、カラヤンが計算ずくで華麗な音楽を組み立てているのに対し、本能というか、遺伝子に組み込まれているような、そういう自然な華麗さがあった。多用するけれども決してやりすぎない、そういったギリギリのバランスを保った演奏であった。

 レガートを多用すると音のつなぎ目が分かりにくくなるのでアンサンブルが合わせにくくなる。だから演奏しながらお互いの音をよく聴き合わなければならず、聴いている方は華麗に聞こえるがオーケストラや合唱にとって非常に負荷のかかる演奏になる(ソロの場合は勿論気にする必要がない)。私は合唱をやっていたことがあるが、正直レガートを多用する指揮者は嫌いであった。

 だから彼の演奏はアンサンブルがしっかりしているオーケストラで特に本領を発揮する。その点ベルリン・フィルは最高である。元々世界でもトップレベルの技術がある上に、良くも悪くもカラヤンの影響を受けてきたのでレガートは得意なのである。

 ただ指揮者というのは大抵晩年になるとテンポが落ちてくる。するとジュリーニのような演奏法だと、何か胃がもたれたような感じの重たい演奏になる。この一枚を聴いていると確かにそういう印象も受ける(その点カラヤンは晩年になっても全然テンポが落ちなかったのは流石といえる)。

 モーツァルトの交響曲、といえば私は40番である。モーツァルトは約50曲の交響曲を描いている(そのうち番号が付いているのは41曲)が、その中で短調は25番と40番のたった2曲しかない。しかもこの2曲はどちらもト短調なので、コアなクラシックファンは演奏時間の長い40番を「大ト短調」、短い25番(「疾風怒濤」で有名)を「小ト短調」という。

 冒頭の艶やかだが憂鬱な、短二度下行を多用した主題(誰でも一度は聴いたことがあるはず)がこの曲に至るところで、まるで通奏低音のように聞こえてくるのが特徴である。この曲はモーツァルトの交響曲の中でも一二を争う華麗さを持つ曲であり、ジュリーニのために作られた、と言えば大袈裟であるが、実際彼の得意とする曲の一つであった。

 入手しやすさで言えばこの一枚であるが、できればフィルハーモニア管弦楽団を指揮した旧盤の方を手に入れて頂きたい。テンポも軽やかで本当に素晴らしい。また旧盤の冒頭の部分、音量を少し大きくしてよく聴いてみると面白い(何が面白いかはヒミツ日記で)。
 朝比奈隆は日本では神格化されていた。関西に住んでいることもあってコンサートにも何回か出かけたことがある。だが特に85歳を超えられたあたりからコンサートの出来不出来が激しくなった。

 ある時は、どう聴いてもオケがバラバラで、金管はキンキン響くし、中声を分厚く弾く朝比奈さんの癖が悪い方に出て、ただテンポの重いだけの演奏のことがあった。はっきり言ってお金を返して欲しい、とすら思ったのだが周りの観衆は拍手喝采。熱狂的なファンが最前列に集まってくるいつもの光景。指揮台の上でお辞儀をする朝比奈さんのお顔が苦々しく見えた。

 新聞やテレビではまだまだ元気そうな報道がしきりとされていたが、やはり85歳を過ぎたあたりから大阪フィルの定期演奏でキャンセルが出て代役がでることが徐々に出てきた。そうこうしているうちにプログラムにもあまり出なくなった。

 シカゴ交響楽団を振る、と聞いて我が身を疑った。体調は大丈夫なのか。アメリカで客死した我が愛するシャルル・ミュンシュのことが頭をよぎった。だが彼はシカゴに行き、そして帰ってきた。演奏はまあ無難にこなした、という感じであった。地元の評論も賛否両論であった。まあそんなことより無事に帰ってきてくれたことが第一であった。

 それから東京都交響楽団とのブルックナーがCD化された。はっきりいって満足のいく出来ではない。聴く者との距離感のあるよそ行きの演奏であった。それを知ってか知らずか評論は「朝比奈の新境地」とはやし立てた。

 もう彼はダメなのか、と思い始めたとき、N響を振る、という話があった。ブルックナーの9番。最後の望みをかけて渋谷に行った。

 素晴らしい演奏だった。感動で涙が出たのは久しぶりだった。

 その後、N響と4番を演奏した後、程なくして他界された。私の一番好きな7番はついに演奏されなかった。

 だが聖フローリアンで1975年10月12日(10月11日はブルックナーの命日である(1896年))に朝比奈さんが振った7番がある。聖フローリアンはブルックナーが11歳から32歳まで音楽を学び育ち、独り立ちした所であり、死後彼の遺言に従って遺体がこの地下に埋葬された、ファンにとってはまさに聖地である。そこで生まれたまさに奇跡の演奏。
 耳が聞こえなくなった作曲家というとベートーヴェンがあまりにも有名である。だがスメタナも忘れるわけにはいかない。スメタナが聴力を失っていったのはちょうどこの「わが祖国」を作曲中と言われ、有名な「モルダウ」の作曲にかかったときは完全に聴力がなかったという。そのような中にあってもなおこのような曲を残せることは驚きである。
 
 先日、チェコの指揮者はスメタナが得意というのはステレオタイプな考えであるといったが、その一方でチェコの指揮者がスメタナをレパートリーに入れているという事実もまた存在する。クーペリックがプラハの春の演奏会に復活した時の一枚もなかなか感動的であったが、演奏そのものはこのノイマンの方がいい。
 ヴァーツラフ・ノイマンはチェコフィルの常任を長くつとめた(1948-1950,1963-1988,1990-1995)だけあって、弦が素晴らしいが管がやや弱くて重い感じがするというこのオーケストラの特性をよく知っていて、うまく修正が為されている。これに比べるとクーペリックの方はやはり練習不足でやや雑な印象を受ける。
 バーンスタイン/ベルリン・フィルのマーラーの9番のように、歴史的なレコーディングはそうあるものではない。その意味でクーペリックの一枚は素晴らしい価値がある。しかしこういったオーケストラと良い関係を築いている指揮者の手になる普段着の演奏も是非聴いて頂きたい。
 今までご存じなかった人は、何はなくとも三善晃という作曲家の名前を覚えて欲しい。桐朋学園の学長と言っても分からないだろう。「赤毛のアン」のアニメのテーマ曲を作曲した人、といえば、もしかしたら「ああ」と思う人が100人に1人はいるかも。合唱や吹奏楽をやっていた人なら、知らない人はモグリ。

 三善晃は紛れもなく現代日本を代表する作曲家で、合唱曲も数多く作曲されていて私のような人間には身近な存在である。

 栗友会という、合唱をやっている人ならだれでも知っているグループがある。栗山文昭という方が指揮をしているいくつかの合唱団の連合グループで、その中心にいる合唱団OMP(現在は合唱団・響と改名)は全国合唱コンクールにおいて18年間で11回金賞を取り続けてきた、これまた日本を代表する合唱団である。

 その栗友会の演奏会で聴いて良かった曲。といっても「ピアノ連弾と男声合唱のための」という、とても珍しい構成であるため、演奏されることはほとんどないのが残念である。三善晃らしい神秘的な和音と独特の構成。ピアノも素晴らしい(三善晃の合唱曲では、ピアノは単なる伴奏ではない)。CDも出ているのだがなぜか検索にかからないので楽譜でご勘弁を。
 ブラームスの音楽は正直言ってあまり好きではない。スコアを見れば分かるが彼は非常に理詰めで音楽を描く人である。一音たりとも無駄な音のないその隙のなさ。これがかえって音楽を窮屈にさせてしまうような気がしてならない。

 作曲というものを一度でもしてみれば分かるが、音楽というのは和音一つを取ってみても分かるように、ただでさえ色々な拘束の中で成立しているものなのである。それなのにわざわざ余計な拘束をかけなくても、と思うのだが、それはあくまで嗜好の問題であって、ブラームスが好きな人にとっては、そういった新たな拘束がブラームスの「仕掛け」に見えるのであり、その「仕掛け」を味わうことがこの上ない楽しみである、と主張される。

 それはそれで理解はできるのだが、そういう聴き方は私の好みではない、ということだ。最近有名な某クラシック漫画の言を借りれば「本能によって捉え 感覚によって統御する」音楽が私の好むところである。
 まあ、こんなことを言っても目くそ鼻くそを笑うようなものである。なまじ楽譜が読めてしまうと純粋に音楽が楽しめなくなる良い例である。アナリーゼなんかくそくらえ、と思いたいのだけれども、どうしてもせずにはいられなくなる情けなさ。

 というわけで(?)ブラームスで私が持っているのは数が少ない。私は基本的には録音のいいものしか聴かないしまた人にも薦めないので、(ある人には悪いが)フルトヴェングラーはどうしてもセカンド・チョイスになる。だがこのシャルル・ミュンシュ/パリ管弦楽団の一枚はまさに人類の宝。このブラームスは聴ける。ちなみに楽譜を持って聴くと最後で「あれっ?」と思うはず。こういう仕掛けは私的には大歓迎。
 「新世界より」は第2楽章(『遠き山に日は落ちて』のメロディー)があまりにも有名であるが、他の楽章もなかなか聴き応えがあるのでぜひ全曲通して聴いて欲しい。コンサートでも人気の曲であるので、できればコンサートで。
 別に意図的に古い録音を選んでいるわけではないが、色々聴いてみた結果、残念ながらやはりこの一枚。イシュトバン・ケルテス指揮、ウィーンフィル、1961年の録音。この3点を覚えて頂ければ大丈夫。そのくらい有名な一枚。
 巷にでているクラシックのおすすめの一枚的な本を開けて頂ければ、批評は大抵載っているので、あえてコメントはしない。権威に迎合するのは必ずしも好むところではないが、この一枚に限っては評価は本当に確立していて、ある批評家などは「これを上回るCDを絶対見つけてやる、と思って何十枚も聴いたけど、やっぱりこの一枚が最高だった。悔しい」と言っておられたほど。何十枚もさすがに聴いていないが、確かにその通りだと思う。
 この一枚を購入時の注意は、ロンドン・フィルが演奏している一枚を間違って買ってしまわないこと。これも名演だが、ウィーンフィルに比べると残念ながらわずかに落ちる。

 なお、個人的にはバーンスタインの一枚も好きであるが、第二楽章が普通の演奏の倍近い長さ(つまり超スローテンポ)なので一般向けではない。
 これはおすすめの『楽譜』である。楽譜の読めない人にはなんのことか分からないかも、であるが、ろくに読めない妻も、簡単な読み方を教えて楽譜を見せながら聞かせると「なかなか面白いね」といってくれる。

 オーケストラの楽譜の読み方はそんなに難しくない。聴きながら見ればいいのである。あとはどの五線譜がどの楽器であるかが分かればいい。Vn(ヴァイオリン)、Vc(チェロ)、Fl(フルート)と言った記号が付いているので慣れてくれば分かる。

 第9の見所は何と言っても第四楽章、つまり合唱の入っているところである。合唱もそうであるが、オーケストラもピッコロ、ダブルバスーン、トライアングルといった交響曲ではあまりお目にかからない楽器が加えられていて面白い。

 あとテノールのソロのパートを見て欲しい。ソロなのになぜか旋律が二つに分かれている所がある。これはベートーヴェンが最初に作曲したメロディーが余りにも高音(何せHがある)で、当時のテノールで出せる人がほとんどいなかったため、初演後にベートーヴェンがもう少し低いメロディーを書き加えたためこうなったものである。
 ただし現在この低いメロディーを歌う人はほとんどいない。しかし実は先日お薦めしたベーム/ウィーン交響楽団の一枚は珍しくテノールが低いメロディーを歌っている。
 オイゲン・ヨッフムという指揮者はバイエルン放送交響楽団の常任指揮者を長くつとめた後、ハイティンクと共にアムステルダム・コンセルトヘボウを率いていた。ブルックナーの録音で特に定評が高いが、ベートーヴェンもなかなか内容が濃くて好きだ。

 この一枚は1961年にバイエルン放送響の常任指揮者を辞任した頃の演奏で、熟知したオーケストラの指揮とあって安定感もあり、全体のバランスもよく本当にオーソドックスな「運命」である。しかも何回も聴きたくなる。「運命」は余りにも有名すぎて逆に意識してしまってなかなか聴かないのであるが、この一枚は別である。

 もちろんフルトヴェングラーのベートーヴェンは別格であるのは言うまでもないが、あまりにも密度が濃すぎて、私は一度聴いたら2〜3ヶ月は聴く気がしない。普段から聴くならこの一枚である。この1961年の演奏も長年なぜかCDが出ず、やっと出て買ってみても音質が今ひとつであった。仕方なくアナログレコードを電子データに落としたものを聴いていたのだが、去年ようやく満足できる音質のものができた。何で最初から出してくれないのか。
 カール・ベームという指揮者は何故か日本で人気があって、最晩年の頃など日本ではカラヤンやバーンスタインと同じような扱いを受けていた。勿論偉大な指揮者ではあるのだけれど、正直晩年の頃にはもう完全に枯れてしまっていて、映像でみたら指揮棒がどう動いているのか分からないような指揮しかできなかった。皮肉なことにそのような指揮でまともな演奏ができるのは世界でも超一流のオーケストラ、特にウィーン・フィルであり、またウィーン・フィルが彼に最大限の尊敬を払っていたこともあって、最晩年の録音は(好みを別にすれば)音の良い演奏であるという結果になっている。

 私が本当に薦めたいのはこの一枚ではなくて、ベームが1956年頃にウィーン交響楽団を指揮した一枚である。脂ののりきった頃の演奏で、現在多く出回っている晩年の演奏とは一線を画すエネルギッシュな名演である。しかし残念ながら現在廃盤である。それに対してこの一枚は、ウィーン・フィルは確かに素晴らしいが、いかんせんテンポが遅すぎる。同じウィーン・フィルを振ったバーンスタインの一枚と比べるとやはり見劣りする。何よりこの一枚は本当のベームではないように思う。
 このコンサートは、バーンスタインの最後のコンサート、という触れ込みになっているが、1990年に札幌のPMFを振ったときのコンサートであって、本当のラストコンサートではない。本当はこのあとボストンのタングルウッド音楽祭でボストンフィルを振ったときが最後であった。

 20世紀で世界に大きな影響を与えた指揮者は、という問いに答えるのは難しいが、演奏そのものを度外視すればやはりカラヤンとバーンスタイン、それとフルトヴェングラーになるであろう。

 カラヤンとバーンスタインは同時代を生きながら全く対極にある人間であり、演奏そのものをとってみればどちらも必ずしも一流とは言えなかった。バーンスタインはマーラーなど当たりもあるが外れも多い。カラヤンは音は確かに素晴らしいが内容がない。しかしクラシックを一般大衆に身近なものにしただけでなく、多くの知識人にも影響を与えた点で現代文化に対する功績は大きい。フルトヴェングラーはそれに加えて演奏が素晴らしく、まさに別格であった。

 私にとって見れば、バーンスタインは今の道に進むきっかけを与えてくれた人物であった。彼が言った"obsession"という言葉が、私の背中を押してくれた。その意味で彼は私の心の支えでもある。おそらく私のような人が世界中にいるのだろう。
 私の周りにピアノを習っている(あるいは、習っていた)人にアルゲリッチを知っているか、と聞いたら、何故かすべての人が知らない、という。聴いたことがない、という人も多い。(もちろんプロならみんな知っているのだろうけど)この事実は私の中では長い間謎となっている。

 とにかく、だまされたと思って一度聴いてもらったらいい。大袈裟に言えば、多くの人がピアノ演奏やピアニストというものに対して持っている印象はことこどく覆されるだろう。クラシック鑑賞を趣味としていた私ですらそうだったのだから。

 チャイコフスキーはピアノ協奏曲を確か2曲書いているはずであるが、第二番はほとんど演奏されないし、CDも見かけない。その代わり第1番は知らない人がいないくらい有名である。知らない、という人も聴いたら分かると思う。

 アルゲリッチはこの曲を得意としていて、録音もいくつかある。ものすごくマイナーだけれども、私の愛聴盤はポーランドのアコードという会社が出している一枚。ライブ録音なのだが、聴衆が曲が終わるのを我慢できず、演奏が終わらないうちに拍手喝采を始めるというすごい演奏。

 ここでお薦めする一枚はそれに勝るとも劣らない演奏であり、ラフマニノフの3番というこれまたすごい演奏が付いている、お買い得な一枚である。
 「大地の歌」は李白などの漢詩の独訳にマーラーが曲を付けたもので、交響曲とはいうもののアルトとテノールの独唱が入る。交響曲と言うよりはオーケストラがバックの歌曲集、といった雰囲気もある。

 この交響曲には「大地の歌(Das Lied von der Erde)」という副題がついているが、よくある「交響曲第○番」という番号がない。

 それまでマーラーは交響曲を8曲書いていた。彼の尊敬するベートーヴェンもシューベルトも交響曲「第9番」を書いた後他界している。マーラーは9曲目の「大地の歌」に敢えて番号を付けず、友人たちに「これは番号はついていないが9番目の交響曲である」と念押しし、その後10番目の交響曲である「第9番」を完成させ、「第10番」の作曲にとりかかった。だが皮肉にも彼は第10番を完成しないまま他界してしまった。その意味では彼も「第9番」の呪縛から逃れることができなかった。

 大地の歌もコンサートでは人気のある曲であるが、どれか一枚、となるとこの一枚になる。ワルターを薦める人も多いが、私はこの一枚が手放せない。
 何と言っても、第1楽章「現世の悲しみを歌う酒宴の歌」が素晴らしい。私は普段ほとんど第一楽章しか聴かない。テノールのフリッツ・ヴンダーリッヒは私の一番好きなテノールであるが、この曲を録音した9日後に階段から転落して不慮の死を遂げた。この一枚は彼の白鳥の歌でもある。
 ラフマニノフの2番は確かにルービンシュタインもライナーも脂がのっている時期で、緊張感があってすごい。しかしオーマンディ/フィラデルフィア響の一枚には及ばないと思う。フィラデルフィア響の艶やかな響き、音楽をやっているのが楽しくて仕方がない、とでもいいたげなルービンシュタインのピアノ。まさに心が洗われるような一枚。

 ラフマニノフの2番は曲を聴いたらほとんどの人が「ああ、あれか」と思う曲だと思うのだが、なかなか自信を持って薦められる一枚がない。リヒテルは確かに名演だけど、あの憂鬱な雰囲気は万人向けではないと思う。それがラフマニノフだ、と言われれば文句は言えないけど。

 SP復刻版で音質はものすごく悪いが、この曲にはラフマニノフの自演したものがある。雑音だらけだが確かに上手い。

 ちなみにこの曲、交響曲にピアノをつけたのか、と思わせるほどオーケストラの響きが厚く、コンサートではピアノがオーケストラに負けてしまってよく聞こえない(特に第一楽章)ことが多い。その点編集時に音量調整ができるので、この曲についてだけいえばCDの方が絶対にいい。

 

 

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索