フェニーチェ歌劇場 ヴェルディ:歌劇「椿姫」全曲
2005年7月21日 趣味
椿姫は現在でこそ3大オペラの一つとして数えられるが、1853年の初演では大失敗に終わった作品である。主人公ヴィオレッタは実在の人物がモデルであり、作曲者ヴェルディは「優雅な容姿と情熱的な声を持った若手にやらせるべきだ」と劇場側に主張した。しかし実際に起用されたのは体重が130kg(ホンマかいな…)もある巨漢のソプラノで、最後に結核で死ぬとはとても思えなかったそうである。
だが私は(それもあるだろうが)少し違う見方をしている。このオペラは第一幕こそ伝統的なオペラの形式に則って書かれているが、第2幕の途中(ヴィオレッタとジェルモンの二重奏あたり)からリリックな声と、どちらかと言えば劇の表現に近い演技力と表現力が必要になってくる。つまり今までになかった革新的な手法を用いたために当時の聴衆に受け容れられなかったのではないか、と思っている。
このオペラも色々聴いたが、ヴェルディの言う「優雅な容姿と情熱的な声を持った」歌手は、私の聴く限りマリア・カラス以外にはあり得ない。だが残念ながらカラスの全盛期の録音には満足のいくものがない。
しかし最近になってようやく(今はマダマダだけど)カラスの領域に近づきうる可能性を持つ歌手が出てきた。デミトラ・テオドッシュウという名前はちょっと覚えておいた方がいいのかも知れない。
ちなみに「椿姫」は原作の小説の題名である「椿を持った女」からの訳であるが、ヴェルディがつけた「La Traviata」という題は「道を踏み外した女」という意味である。内容から言ってこっちの方がぴったりだと思う。
だが私は(それもあるだろうが)少し違う見方をしている。このオペラは第一幕こそ伝統的なオペラの形式に則って書かれているが、第2幕の途中(ヴィオレッタとジェルモンの二重奏あたり)からリリックな声と、どちらかと言えば劇の表現に近い演技力と表現力が必要になってくる。つまり今までになかった革新的な手法を用いたために当時の聴衆に受け容れられなかったのではないか、と思っている。
このオペラも色々聴いたが、ヴェルディの言う「優雅な容姿と情熱的な声を持った」歌手は、私の聴く限りマリア・カラス以外にはあり得ない。だが残念ながらカラスの全盛期の録音には満足のいくものがない。
しかし最近になってようやく(今はマダマダだけど)カラスの領域に近づきうる可能性を持つ歌手が出てきた。デミトラ・テオドッシュウという名前はちょっと覚えておいた方がいいのかも知れない。
ちなみに「椿姫」は原作の小説の題名である「椿を持った女」からの訳であるが、ヴェルディがつけた「La Traviata」という題は「道を踏み外した女」という意味である。内容から言ってこっちの方がぴったりだと思う。
ベートーヴェン:交響曲 第3番「英雄」(Fin)
2005年7月20日 趣味
というわけで(謎)、元に戻ります。
とにかく第一楽章最後の英雄の主題の消失は、当時のトランペットの技術的な制約のためやむなく取られた処置、と解釈され、現代のオーケストラではこの部分はトランペットが引き続き演奏することになっている。
しかし、その一方でこれは作曲者の作為、と捉える向きもある。第一楽章最後の英雄の主題は二度繰り返されるが、そのうち最初の一回は実はトランペットで演奏可能なのである。ならば最初の主題を最後まで吹き終えてから他の楽器に渡せばいいのに、実際の楽譜は主題の途中で他の楽器に引き渡している。だから意図的なものではないか、と言われるのである。
今回紹介する18世紀オーケストラの演奏は、この消失を楽譜通りに再現している。これは、作曲家の書いた楽譜を忠実に再現しようと言う試みであり、面白い。この一枚が出てからは度々このような試みが見られるようになった。
また、この一枚はベートーヴェンのメトロノーム指示を忠実に守ろうとしている事でも有名である。メトロノームはベートーヴェンの時代にちょうど開発され、新しい物好きのベートーヴェンはメトロノームによる速度指示を好んで用いた。ところがベートーヴェンのメトロノームはどうも正しく動かなかったらしく、楽譜の指定通りに演奏するとかなり速い演奏になってしまう。現在ではベートーヴェンの指示より2割くらい遅いテンポで演奏されるのが一般的である。
この第3番の第4楽章は最も有名な例で、楽器の改良や演奏技術が当時に比べてめざましく進歩した現代でも、まず演奏不可能な高速テンポである。これはメトロノームの狂いの他にベートーヴェン自身が書き間違えたためにこうなったというのが定説である。
しかし、この一枚はそのかなり速いテンポに近づけようとしている。実際にメトロノームで計ってみると少し遅いが、頑張っているのは確かである。
とにかく第一楽章最後の英雄の主題の消失は、当時のトランペットの技術的な制約のためやむなく取られた処置、と解釈され、現代のオーケストラではこの部分はトランペットが引き続き演奏することになっている。
しかし、その一方でこれは作曲者の作為、と捉える向きもある。第一楽章最後の英雄の主題は二度繰り返されるが、そのうち最初の一回は実はトランペットで演奏可能なのである。ならば最初の主題を最後まで吹き終えてから他の楽器に渡せばいいのに、実際の楽譜は主題の途中で他の楽器に引き渡している。だから意図的なものではないか、と言われるのである。
今回紹介する18世紀オーケストラの演奏は、この消失を楽譜通りに再現している。これは、作曲家の書いた楽譜を忠実に再現しようと言う試みであり、面白い。この一枚が出てからは度々このような試みが見られるようになった。
また、この一枚はベートーヴェンのメトロノーム指示を忠実に守ろうとしている事でも有名である。メトロノームはベートーヴェンの時代にちょうど開発され、新しい物好きのベートーヴェンはメトロノームによる速度指示を好んで用いた。ところがベートーヴェンのメトロノームはどうも正しく動かなかったらしく、楽譜の指定通りに演奏するとかなり速い演奏になってしまう。現在ではベートーヴェンの指示より2割くらい遅いテンポで演奏されるのが一般的である。
この第3番の第4楽章は最も有名な例で、楽器の改良や演奏技術が当時に比べてめざましく進歩した現代でも、まず演奏不可能な高速テンポである。これはメトロノームの狂いの他にベートーヴェン自身が書き間違えたためにこうなったというのが定説である。
しかし、この一枚はそのかなり速いテンポに近づけようとしている。実際にメトロノームで計ってみると少し遅いが、頑張っているのは確かである。
群馬大 これで最後
2005年7月6日詳しい記事が出ていた。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20050705/mng_____tokuho__000.shtml
おおよそ予想していた内容だった。年齢制限について「各大学の裁量」とする文部科学省の見解は意外であった。
この問題、国立大医学部というところが問題を複雑にしている。国が作った大学であるから、入試で年齢も含めた一切の差別をしないというのが原則である。しかし、医学部は医師の養成を主目的とする以上、社会に貢献できる期間の短い高齢者を受け容れるには抵抗があるだろう。しかも国公立大には多額の税金が投じられているので、なおさらそのような意識があるだろう。
これが教育なら話が変わる。教育大は教員の養成を目的としているが、実はすべての都道府県の教員採用試験には年齢制限(おおむね40歳)がある。だから教員になるには事実上の年齢制限がある。
医学部と違うのは、教育大の場合は教員のみならず民間企業や公務員など他の選択肢があり、しかも近年はむしろそちらへの道を選択する人が少なくない。これに対して医学部はほとんどの人が医師になる。費用対効果の面を抜きにして考えると、そういった進路の硬直性にも問題があるのではないだろうか。
ただ気になるのは、ご本人の「高齢になってから学習したいというニーズがある」という、確かにそうなのだがいささかピント外れのコメント。再受験に厳しいとされている群馬大を志望されたことからも、充分な情報を入手されていなかった可能性がある。臨床医を望んでおられるようだが、現在の臨床研修には救急もある。記事を拝見する限り高い意識はお持ちのようだが、その一方である種の危うさが感じられたことは正直に言っておきたい。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20050705/mng_____tokuho__000.shtml
おおよそ予想していた内容だった。年齢制限について「各大学の裁量」とする文部科学省の見解は意外であった。
この問題、国立大医学部というところが問題を複雑にしている。国が作った大学であるから、入試で年齢も含めた一切の差別をしないというのが原則である。しかし、医学部は医師の養成を主目的とする以上、社会に貢献できる期間の短い高齢者を受け容れるには抵抗があるだろう。しかも国公立大には多額の税金が投じられているので、なおさらそのような意識があるだろう。
これが教育なら話が変わる。教育大は教員の養成を目的としているが、実はすべての都道府県の教員採用試験には年齢制限(おおむね40歳)がある。だから教員になるには事実上の年齢制限がある。
医学部と違うのは、教育大の場合は教員のみならず民間企業や公務員など他の選択肢があり、しかも近年はむしろそちらへの道を選択する人が少なくない。これに対して医学部はほとんどの人が医師になる。費用対効果の面を抜きにして考えると、そういった進路の硬直性にも問題があるのではないだろうか。
ただ気になるのは、ご本人の「高齢になってから学習したいというニーズがある」という、確かにそうなのだがいささかピント外れのコメント。再受験に厳しいとされている群馬大を志望されたことからも、充分な情報を入手されていなかった可能性がある。臨床医を望んでおられるようだが、現在の臨床研修には救急もある。記事を拝見する限り高い意識はお持ちのようだが、その一方である種の危うさが感じられたことは正直に言っておきたい。
群馬大の一件
2005年7月2日 下の文を良く読んでみると、どうも大学よりの考えと取られても仕方ないかな、と思う。しかし大学側はこの費用対効果論を必ず持ち出してくるだろうから、ここを裁判所がどう判断するかが一つの争点になるだろうし、逆に言えばここを論破さえできれば勝訴する可能性は十分にある。
大学にとって不利なのは、他大学では50歳代での入学実績が既に存在することである。私の住む近畿地方で言えば、神戸大では60歳代卒業の実績が確かあったと思う。奈良県立医大では50歳代で入学された方が現在研修医として頑張っておられる。40歳代はざらにある。恐らく証拠調べの段階で必ず出てくるだろう。当然卒業後の進路についても検討されるはずである。
他の方の日記を拝見していたら「医学部は医師になるためにあるのではない」というご意見があった。その通りだと思う。ただ統計的にはやはり医師になる人が多いだろう。結果的に医師と異なる道を歩むことになるというのは仕方ないが。
大学としても、学生にはまず医師か医学研究者を目指すことを望んでいると思われる。もし仮に初めから医師以外の進路を希望していたら、大学とすれば合格はさせにくいだろうと思う。
原告の方のお気持ちから考えれば、他に医療系の学部はあまたあるのに医学部を選択された訳だからやはり医師になりたいと思ってられるのだろう。東京に住んでおられるのにわざわざ群馬大を受験されたくらいである(なぜ再受験に厳しい大学を選んだのかは理解に苦しむにしても)。記事の文章からはそういった「思い」が伝わってこないのがもどかしい。
心情的には、原告に勝って欲しいと思う。それは確かである。しかし何か心の奥にひっかかるものがある。今の心情はそんな所である。
大学にとって不利なのは、他大学では50歳代での入学実績が既に存在することである。私の住む近畿地方で言えば、神戸大では60歳代卒業の実績が確かあったと思う。奈良県立医大では50歳代で入学された方が現在研修医として頑張っておられる。40歳代はざらにある。恐らく証拠調べの段階で必ず出てくるだろう。当然卒業後の進路についても検討されるはずである。
他の方の日記を拝見していたら「医学部は医師になるためにあるのではない」というご意見があった。その通りだと思う。ただ統計的にはやはり医師になる人が多いだろう。結果的に医師と異なる道を歩むことになるというのは仕方ないが。
大学としても、学生にはまず医師か医学研究者を目指すことを望んでいると思われる。もし仮に初めから医師以外の進路を希望していたら、大学とすれば合格はさせにくいだろうと思う。
原告の方のお気持ちから考えれば、他に医療系の学部はあまたあるのに医学部を選択された訳だからやはり医師になりたいと思ってられるのだろう。東京に住んでおられるのにわざわざ群馬大を受験されたくらいである(なぜ再受験に厳しい大学を選んだのかは理解に苦しむにしても)。記事の文章からはそういった「思い」が伝わってこないのがもどかしい。
心情的には、原告に勝って欲しいと思う。それは確かである。しかし何か心の奥にひっかかるものがある。今の心情はそんな所である。
訴訟:入学許可求め、群馬大医学部を訴え
2005年7月1日 群馬大医学部(前橋市昭和町3)の今年度入学試験で、年齢を理由に不合格にしたのは不当だとして、東京都目黒区の主婦(55)が大学を相手取り、医学部医学科入学の許可を求める訴えを30日までに前橋地裁に起こした。
訴状によると、主婦は今年度入試で医学部医学科を受験したが不合格となった。群馬大に個人情報の開示を請求すると、主婦のセンター試験と2次試験の総得点が、合格者の平均点を上回っていたことが判明。
入試担当者に説明を求めたところ、55歳という年齢が問題となったという説明を非公式に受けたという。原告は「年齢を理由とした不合格判定は合格判定権の乱用」と主張している。
群馬大総務課は「事実関係を調べたうえで対応を検討したい」と話している。
(毎日新聞) - 7月1日
------------------------------------------------------
医学部に高年齢者を入学させない大学があるのではないか、という噂はかねてからあり、群馬大はその一番手として必ずあげられている。
年齢を理由に差別をするな、という姿勢には基本的に賛成だが、医学部の教育には非常に金がかかるという面もあるので、私が大学関係者なら、55歳の人を医学部に入学させるかどうかは、正直少し悩むと思う。私ならもう少し本人と追加の面接を行って動機や今後の見通しなどについて詳しく聴いてから判断したい。
55歳で入学すると卒業時は61歳、2年の臨床研修を終わると63歳。勤務医の定年が65歳とすれば2年しか働けない。実家が開業しているとか自力で開業する当てがあるというのなら前向きに考えるだろうけど、そういう当てもないのに入学したい、と言われても、一人一億かかると言われる医学部の教育費をたった2年で償還できるわけがないから、やはり問題になると思う。
投資に見合う効果が期待できなければ投資は無駄になる、そうなるくらいなら最初から投資しない。本人には確かに気の毒だけれども、そういった理由で入学を拒否したのなら、一応筋は通る。少なくとも明確で実現性の高い進路や地位が担保されてない限り、55歳の人を入学させないのは、現実的な判断であるといえよう。高いお金をかけて育てたのに2年やそこらで辞められても困るだけだ。
学ぶ権利は確かに尊重しなければならないが、医学部は職と直結しているから、単に「学びたい」というだけでは門戸は開けない。原告の方がそういった医学部の特殊性をどのようにお考えになっておられるか、それに対して裁判所がどう判断するかは知りたいと思う。
とにかく記事ではそのような細かいところは何も書かれていないので、想像するしかないのだが。
訴状によると、主婦は今年度入試で医学部医学科を受験したが不合格となった。群馬大に個人情報の開示を請求すると、主婦のセンター試験と2次試験の総得点が、合格者の平均点を上回っていたことが判明。
入試担当者に説明を求めたところ、55歳という年齢が問題となったという説明を非公式に受けたという。原告は「年齢を理由とした不合格判定は合格判定権の乱用」と主張している。
群馬大総務課は「事実関係を調べたうえで対応を検討したい」と話している。
(毎日新聞) - 7月1日
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医学部に高年齢者を入学させない大学があるのではないか、という噂はかねてからあり、群馬大はその一番手として必ずあげられている。
年齢を理由に差別をするな、という姿勢には基本的に賛成だが、医学部の教育には非常に金がかかるという面もあるので、私が大学関係者なら、55歳の人を医学部に入学させるかどうかは、正直少し悩むと思う。私ならもう少し本人と追加の面接を行って動機や今後の見通しなどについて詳しく聴いてから判断したい。
55歳で入学すると卒業時は61歳、2年の臨床研修を終わると63歳。勤務医の定年が65歳とすれば2年しか働けない。実家が開業しているとか自力で開業する当てがあるというのなら前向きに考えるだろうけど、そういう当てもないのに入学したい、と言われても、一人一億かかると言われる医学部の教育費をたった2年で償還できるわけがないから、やはり問題になると思う。
投資に見合う効果が期待できなければ投資は無駄になる、そうなるくらいなら最初から投資しない。本人には確かに気の毒だけれども、そういった理由で入学を拒否したのなら、一応筋は通る。少なくとも明確で実現性の高い進路や地位が担保されてない限り、55歳の人を入学させないのは、現実的な判断であるといえよう。高いお金をかけて育てたのに2年やそこらで辞められても困るだけだ。
学ぶ権利は確かに尊重しなければならないが、医学部は職と直結しているから、単に「学びたい」というだけでは門戸は開けない。原告の方がそういった医学部の特殊性をどのようにお考えになっておられるか、それに対して裁判所がどう判断するかは知りたいと思う。
とにかく記事ではそのような細かいところは何も書かれていないので、想像するしかないのだが。
ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」 (2)
2005年6月27日
ベートーヴェンが「英雄」を作曲した当時のトランペットは、自然倍音列という限られた音程しか出せないものであった。
もしリコーダーが家にあれば試してもらえればいいが、弱く息を吹き込んだときと強く息を吹き込んだ時は音程が違うことが分かるだろう。これがオーバーブローというテクニックで、吹き込む息の量を変えることで音程がある程度調整できる(これが倍音列に従うのである)奏法であって、現在でも使われることがある。
当時のトランペットはバルブが付いていない、要するにただの管であったので、オーバーブローしか音程の調整ができなかった。だから自然倍音列しか出せないのである。
第一楽章の最後、トランペットが主題を高らかに奏でるのだが、限られた音程しか出せないと言う制限のために、トランペットが主題のメロディーの途中までしか演奏できず(図の赤い部分)、途中で木管楽器(図ではオーボエ)にバトンタッチしてしまう。このため第一楽章のクライマックスで何とメロディーが聞こえなくなってしまうという事態が起こってしまう。
これが有名な「主題の喪失」である。現在のトランペットでは演奏可能であるから、現在の演奏ではメロディーを引き続きトランペットに吹かせるのが一般的である。
…と言うことになっているだが…(つづく)。
もしリコーダーが家にあれば試してもらえればいいが、弱く息を吹き込んだときと強く息を吹き込んだ時は音程が違うことが分かるだろう。これがオーバーブローというテクニックで、吹き込む息の量を変えることで音程がある程度調整できる(これが倍音列に従うのである)奏法であって、現在でも使われることがある。
当時のトランペットはバルブが付いていない、要するにただの管であったので、オーバーブローしか音程の調整ができなかった。だから自然倍音列しか出せないのである。
第一楽章の最後、トランペットが主題を高らかに奏でるのだが、限られた音程しか出せないと言う制限のために、トランペットが主題のメロディーの途中までしか演奏できず(図の赤い部分)、途中で木管楽器(図ではオーボエ)にバトンタッチしてしまう。このため第一楽章のクライマックスで何とメロディーが聞こえなくなってしまうという事態が起こってしまう。
これが有名な「主題の喪失」である。現在のトランペットでは演奏可能であるから、現在の演奏ではメロディーを引き続きトランペットに吹かせるのが一般的である。
…と言うことになっているだが…(つづく)。
ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」 (1)
2005年6月23日
ベートーヴェンの生きた時代、つまり18世紀後半〜19世紀にかけての時代は、楽器も現在のものとは違っていた。
画像を見て頂きたい(画像をクリックすると全体が見えます)。これ、実は当時のトランペットである。トロンボーンのように見えるが、これがトランペット。つまり、現在のようにバルブが付いていないので、微妙な音程の調整ができないようになっている(厳密に言えば、自然倍音列しか出せないようになっている)。
こういった楽器の制限は、当然楽譜にも反映される。それが思わぬ結果を生むことになる(つづく)。
画像を見て頂きたい(画像をクリックすると全体が見えます)。これ、実は当時のトランペットである。トロンボーンのように見えるが、これがトランペット。つまり、現在のようにバルブが付いていないので、微妙な音程の調整ができないようになっている(厳密に言えば、自然倍音列しか出せないようになっている)。
こういった楽器の制限は、当然楽譜にも反映される。それが思わぬ結果を生むことになる(つづく)。
カルロ・マリア・ジュリーニ/モーツァルト:交響曲第40番
2005年6月18日 趣味
先日14日に他界されたカルロ・マリア・ジュリーニと言えば、「うたごころ」という使い古された彼に対する批評のごとく、レガート(音を滑らかにつなぐ奏法)とカンタービレ("歌うように"という表現指示)を多用したイタリア人らしい華麗さが売りであった。
その点はカラヤンも同じであったのだが、カラヤンは練習風景の記録を見ると「えっ、こんなところで?」というところでレガートを使っていることがあった。カラヤンなりの計算があってのことであるが、どうにも無理があるというか、狙いすぎというか、そんなところがあった。
しかしジュリーニは、例えて言うならば、カラヤンが計算ずくで華麗な音楽を組み立てているのに対し、本能というか、遺伝子に組み込まれているような、そういう自然な華麗さがあった。多用するけれども決してやりすぎない、そういったギリギリのバランスを保った演奏であった。
レガートを多用すると音のつなぎ目が分かりにくくなるのでアンサンブルが合わせにくくなる。だから演奏しながらお互いの音をよく聴き合わなければならず、聴いている方は華麗に聞こえるがオーケストラや合唱にとって非常に負荷のかかる演奏になる(ソロの場合は勿論気にする必要がない)。私は合唱をやっていたことがあるが、正直レガートを多用する指揮者は嫌いであった。
だから彼の演奏はアンサンブルがしっかりしているオーケストラで特に本領を発揮する。その点ベルリン・フィルは最高である。元々世界でもトップレベルの技術がある上に、良くも悪くもカラヤンの影響を受けてきたのでレガートは得意なのである。
ただ指揮者というのは大抵晩年になるとテンポが落ちてくる。するとジュリーニのような演奏法だと、何か胃がもたれたような感じの重たい演奏になる。この一枚を聴いていると確かにそういう印象も受ける(その点カラヤンは晩年になっても全然テンポが落ちなかったのは流石といえる)。
モーツァルトの交響曲、といえば私は40番である。モーツァルトは約50曲の交響曲を描いている(そのうち番号が付いているのは41曲)が、その中で短調は25番と40番のたった2曲しかない。しかもこの2曲はどちらもト短調なので、コアなクラシックファンは演奏時間の長い40番を「大ト短調」、短い25番(「疾風怒濤」で有名)を「小ト短調」という。
冒頭の艶やかだが憂鬱な、短二度下行を多用した主題(誰でも一度は聴いたことがあるはず)がこの曲に至るところで、まるで通奏低音のように聞こえてくるのが特徴である。この曲はモーツァルトの交響曲の中でも一二を争う華麗さを持つ曲であり、ジュリーニのために作られた、と言えば大袈裟であるが、実際彼の得意とする曲の一つであった。
入手しやすさで言えばこの一枚であるが、できればフィルハーモニア管弦楽団を指揮した旧盤の方を手に入れて頂きたい。テンポも軽やかで本当に素晴らしい。また旧盤の冒頭の部分、音量を少し大きくしてよく聴いてみると面白い(何が面白いかはヒミツ日記で)。
その点はカラヤンも同じであったのだが、カラヤンは練習風景の記録を見ると「えっ、こんなところで?」というところでレガートを使っていることがあった。カラヤンなりの計算があってのことであるが、どうにも無理があるというか、狙いすぎというか、そんなところがあった。
しかしジュリーニは、例えて言うならば、カラヤンが計算ずくで華麗な音楽を組み立てているのに対し、本能というか、遺伝子に組み込まれているような、そういう自然な華麗さがあった。多用するけれども決してやりすぎない、そういったギリギリのバランスを保った演奏であった。
レガートを多用すると音のつなぎ目が分かりにくくなるのでアンサンブルが合わせにくくなる。だから演奏しながらお互いの音をよく聴き合わなければならず、聴いている方は華麗に聞こえるがオーケストラや合唱にとって非常に負荷のかかる演奏になる(ソロの場合は勿論気にする必要がない)。私は合唱をやっていたことがあるが、正直レガートを多用する指揮者は嫌いであった。
だから彼の演奏はアンサンブルがしっかりしているオーケストラで特に本領を発揮する。その点ベルリン・フィルは最高である。元々世界でもトップレベルの技術がある上に、良くも悪くもカラヤンの影響を受けてきたのでレガートは得意なのである。
ただ指揮者というのは大抵晩年になるとテンポが落ちてくる。するとジュリーニのような演奏法だと、何か胃がもたれたような感じの重たい演奏になる。この一枚を聴いていると確かにそういう印象も受ける(その点カラヤンは晩年になっても全然テンポが落ちなかったのは流石といえる)。
モーツァルトの交響曲、といえば私は40番である。モーツァルトは約50曲の交響曲を描いている(そのうち番号が付いているのは41曲)が、その中で短調は25番と40番のたった2曲しかない。しかもこの2曲はどちらもト短調なので、コアなクラシックファンは演奏時間の長い40番を「大ト短調」、短い25番(「疾風怒濤」で有名)を「小ト短調」という。
冒頭の艶やかだが憂鬱な、短二度下行を多用した主題(誰でも一度は聴いたことがあるはず)がこの曲に至るところで、まるで通奏低音のように聞こえてくるのが特徴である。この曲はモーツァルトの交響曲の中でも一二を争う華麗さを持つ曲であり、ジュリーニのために作られた、と言えば大袈裟であるが、実際彼の得意とする曲の一つであった。
入手しやすさで言えばこの一枚であるが、できればフィルハーモニア管弦楽団を指揮した旧盤の方を手に入れて頂きたい。テンポも軽やかで本当に素晴らしい。また旧盤の冒頭の部分、音量を少し大きくしてよく聴いてみると面白い(何が面白いかはヒミツ日記で)。
聖フローリアンのブルックナー(交響曲第7番)
2005年6月16日 趣味
朝比奈隆は日本では神格化されていた。関西に住んでいることもあってコンサートにも何回か出かけたことがある。だが特に85歳を超えられたあたりからコンサートの出来不出来が激しくなった。
ある時は、どう聴いてもオケがバラバラで、金管はキンキン響くし、中声を分厚く弾く朝比奈さんの癖が悪い方に出て、ただテンポの重いだけの演奏のことがあった。はっきり言ってお金を返して欲しい、とすら思ったのだが周りの観衆は拍手喝采。熱狂的なファンが最前列に集まってくるいつもの光景。指揮台の上でお辞儀をする朝比奈さんのお顔が苦々しく見えた。
新聞やテレビではまだまだ元気そうな報道がしきりとされていたが、やはり85歳を過ぎたあたりから大阪フィルの定期演奏でキャンセルが出て代役がでることが徐々に出てきた。そうこうしているうちにプログラムにもあまり出なくなった。
シカゴ交響楽団を振る、と聞いて我が身を疑った。体調は大丈夫なのか。アメリカで客死した我が愛するシャルル・ミュンシュのことが頭をよぎった。だが彼はシカゴに行き、そして帰ってきた。演奏はまあ無難にこなした、という感じであった。地元の評論も賛否両論であった。まあそんなことより無事に帰ってきてくれたことが第一であった。
それから東京都交響楽団とのブルックナーがCD化された。はっきりいって満足のいく出来ではない。聴く者との距離感のあるよそ行きの演奏であった。それを知ってか知らずか評論は「朝比奈の新境地」とはやし立てた。
もう彼はダメなのか、と思い始めたとき、N響を振る、という話があった。ブルックナーの9番。最後の望みをかけて渋谷に行った。
素晴らしい演奏だった。感動で涙が出たのは久しぶりだった。
その後、N響と4番を演奏した後、程なくして他界された。私の一番好きな7番はついに演奏されなかった。
だが聖フローリアンで1975年10月12日(10月11日はブルックナーの命日である(1896年))に朝比奈さんが振った7番がある。聖フローリアンはブルックナーが11歳から32歳まで音楽を学び育ち、独り立ちした所であり、死後彼の遺言に従って遺体がこの地下に埋葬された、ファンにとってはまさに聖地である。そこで生まれたまさに奇跡の演奏。
ある時は、どう聴いてもオケがバラバラで、金管はキンキン響くし、中声を分厚く弾く朝比奈さんの癖が悪い方に出て、ただテンポの重いだけの演奏のことがあった。はっきり言ってお金を返して欲しい、とすら思ったのだが周りの観衆は拍手喝采。熱狂的なファンが最前列に集まってくるいつもの光景。指揮台の上でお辞儀をする朝比奈さんのお顔が苦々しく見えた。
新聞やテレビではまだまだ元気そうな報道がしきりとされていたが、やはり85歳を過ぎたあたりから大阪フィルの定期演奏でキャンセルが出て代役がでることが徐々に出てきた。そうこうしているうちにプログラムにもあまり出なくなった。
シカゴ交響楽団を振る、と聞いて我が身を疑った。体調は大丈夫なのか。アメリカで客死した我が愛するシャルル・ミュンシュのことが頭をよぎった。だが彼はシカゴに行き、そして帰ってきた。演奏はまあ無難にこなした、という感じであった。地元の評論も賛否両論であった。まあそんなことより無事に帰ってきてくれたことが第一であった。
それから東京都交響楽団とのブルックナーがCD化された。はっきりいって満足のいく出来ではない。聴く者との距離感のあるよそ行きの演奏であった。それを知ってか知らずか評論は「朝比奈の新境地」とはやし立てた。
もう彼はダメなのか、と思い始めたとき、N響を振る、という話があった。ブルックナーの9番。最後の望みをかけて渋谷に行った。
素晴らしい演奏だった。感動で涙が出たのは久しぶりだった。
その後、N響と4番を演奏した後、程なくして他界された。私の一番好きな7番はついに演奏されなかった。
だが聖フローリアンで1975年10月12日(10月11日はブルックナーの命日である(1896年))に朝比奈さんが振った7番がある。聖フローリアンはブルックナーが11歳から32歳まで音楽を学び育ち、独り立ちした所であり、死後彼の遺言に従って遺体がこの地下に埋葬された、ファンにとってはまさに聖地である。そこで生まれたまさに奇跡の演奏。
ノイマン/スメタナ:連作交響詩「わが祖国」
2005年6月13日 趣味
耳が聞こえなくなった作曲家というとベートーヴェンがあまりにも有名である。だがスメタナも忘れるわけにはいかない。スメタナが聴力を失っていったのはちょうどこの「わが祖国」を作曲中と言われ、有名な「モルダウ」の作曲にかかったときは完全に聴力がなかったという。そのような中にあってもなおこのような曲を残せることは驚きである。
先日、チェコの指揮者はスメタナが得意というのはステレオタイプな考えであるといったが、その一方でチェコの指揮者がスメタナをレパートリーに入れているという事実もまた存在する。クーペリックがプラハの春の演奏会に復活した時の一枚もなかなか感動的であったが、演奏そのものはこのノイマンの方がいい。
ヴァーツラフ・ノイマンはチェコフィルの常任を長くつとめた(1948-1950,1963-1988,1990-1995)だけあって、弦が素晴らしいが管がやや弱くて重い感じがするというこのオーケストラの特性をよく知っていて、うまく修正が為されている。これに比べるとクーペリックの方はやはり練習不足でやや雑な印象を受ける。
バーンスタイン/ベルリン・フィルのマーラーの9番のように、歴史的なレコーディングはそうあるものではない。その意味でクーペリックの一枚は素晴らしい価値がある。しかしこういったオーケストラと良い関係を築いている指揮者の手になる普段着の演奏も是非聴いて頂きたい。
先日、チェコの指揮者はスメタナが得意というのはステレオタイプな考えであるといったが、その一方でチェコの指揮者がスメタナをレパートリーに入れているという事実もまた存在する。クーペリックがプラハの春の演奏会に復活した時の一枚もなかなか感動的であったが、演奏そのものはこのノイマンの方がいい。
ヴァーツラフ・ノイマンはチェコフィルの常任を長くつとめた(1948-1950,1963-1988,1990-1995)だけあって、弦が素晴らしいが管がやや弱くて重い感じがするというこのオーケストラの特性をよく知っていて、うまく修正が為されている。これに比べるとクーペリックの方はやはり練習不足でやや雑な印象を受ける。
バーンスタイン/ベルリン・フィルのマーラーの9番のように、歴史的なレコーディングはそうあるものではない。その意味でクーペリックの一枚は素晴らしい価値がある。しかしこういったオーケストラと良い関係を築いている指揮者の手になる普段着の演奏も是非聴いて頂きたい。
仮面ライダー響鬼テーマソング「少年よ」
2005年6月12日 音楽
布施明さんは、もしオペラに転向したら今すぐにでも世界のトップクラスになれると思っている。リリックな歌声、豊かな声量、何より日本人では図抜けた歌唱力。しかも20年以上もそれらを維持してきた努力。子供向けの番組の主題歌でも決して手を抜かないその姿勢。どれをとっても素晴らしいと思う。
レコード大賞をとられた「シクラメンのかほり」の頃は、声は確かに美しく上手かったけれど、今思うと音程は今より不安定だったし(特に弱い音)、声量を上げると喉が閉まってきて音が割れた、いわゆる「がなり声」になりかかっていた。
日本の歌手として最高の栄誉を手にしながらも決して満足せず、地道に努力を積まれてきたことは、たとえ傍で見ていなくてもこの曲を聴けばよくわかる。今の移り変わりの激しい歌謡曲界の中で、布施さんのような存在はまさに貴重であると思う。
レコード大賞をとられた「シクラメンのかほり」の頃は、声は確かに美しく上手かったけれど、今思うと音程は今より不安定だったし(特に弱い音)、声量を上げると喉が閉まってきて音が割れた、いわゆる「がなり声」になりかかっていた。
日本の歌手として最高の栄誉を手にしながらも決して満足せず、地道に努力を積まれてきたことは、たとえ傍で見ていなくてもこの曲を聴けばよくわかる。今の移り変わりの激しい歌謡曲界の中で、布施さんのような存在はまさに貴重であると思う。
魔法先生ネギま! 5月度OPテーマ ハッピー☆マテリアル
2005年6月10日 音楽
以前このアニメのEDテーマを評したことがあった。
調べたところ、このアニメは「10歳のウェールズ出身の魔法使いの少年が(ハ○ポ△?)、何故か日本の女子校の担任として赴任してくる」という、労働基準法もへったくれもない無茶苦茶な設定であるようだ。
この曲はアニメのOPテーマであるが、担任のクラスの生徒(もちろん全員女子)が31人(しかも1人は幽霊で1人はロボ…)いるらしく、そのうちの5〜6人ずつが月代わりで同じテーマを歌っているのだ。なにやら商魂たくましきものを感じないわけでもないが、700円という価格設定に若干の良心を感じないわけでもない。
それはさておき、そういう事情もあってこの曲は毎月オリコンのチャートに(それも結構上位に)入ってきている。先月発売分は3位にランクインされたとか。
今回取り上げたのは、そのような状況にもかかわらず、この曲に対するTVのランキング番組の扱いがぞんざい(コメントが無くスルーされたり、存在自体を無視されたりする)なのに不満を持つ人たちが、「いくらなんでも1位になったら無視できないだろう」ということで、この曲をオリコン1位にしよう、というプロジェクトを立ち上げていることを面白い、と思ったからで、それ以上の理由はない(大体聴いてもいないのでコメントできない)。
http://happymaterial.com/
(ミラー http://azaleaasa.hp.infoseek.co.jp/)
同じ素材の曲を演奏や解釈(アレンジ)を変えて出す、というのは何のことはない、クラシックと同じである。現代の作曲家には失礼かも知れないが、いまや再現芸術という一面も持つクラシックは、時代の淘汰を受け、芸術という言葉にふさわしい深い洗練された内容を獲得してきたと言える。
だがその一方で売れているのに、いわゆるアニソンだからという理由でマスメディアに無視されるのは忍びないと言えば忍びない。確かに歴史も伝統もあるとは言いにくいが、私くらいの世代以下なら誰でも、子供の頃になじんだアニソンはあるはずだ。まあそう言うわけで大人買いする余裕はないが、700円なら少し協力してもいいかな、と少々つむじの曲がっている私は思っている。
高尚だとか芸術だとかオタクだとか言い出したら、せっかくの音楽が楽しめない。クラシックにしても、極端に言えば昔は上流階級の娯楽であった。一般の人々には現在民謡として知られる労働歌やはやり歌がそれであった。現在芸術だとかアートだとか言われている大抵の音楽は、娯楽から始まっているのである。楽しいと思えればそれでいいのではないか、と思う。
調べたところ、このアニメは「10歳のウェールズ出身の魔法使いの少年が(ハ○ポ△?)、何故か日本の女子校の担任として赴任してくる」という、労働基準法もへったくれもない無茶苦茶な設定であるようだ。
この曲はアニメのOPテーマであるが、担任のクラスの生徒(もちろん全員女子)が31人(しかも1人は幽霊で1人はロボ…)いるらしく、そのうちの5〜6人ずつが月代わりで同じテーマを歌っているのだ。なにやら商魂たくましきものを感じないわけでもないが、700円という価格設定に若干の良心を感じないわけでもない。
それはさておき、そういう事情もあってこの曲は毎月オリコンのチャートに(それも結構上位に)入ってきている。先月発売分は3位にランクインされたとか。
今回取り上げたのは、そのような状況にもかかわらず、この曲に対するTVのランキング番組の扱いがぞんざい(コメントが無くスルーされたり、存在自体を無視されたりする)なのに不満を持つ人たちが、「いくらなんでも1位になったら無視できないだろう」ということで、この曲をオリコン1位にしよう、というプロジェクトを立ち上げていることを面白い、と思ったからで、それ以上の理由はない(大体聴いてもいないのでコメントできない)。
http://happymaterial.com/
(ミラー http://azaleaasa.hp.infoseek.co.jp/)
同じ素材の曲を演奏や解釈(アレンジ)を変えて出す、というのは何のことはない、クラシックと同じである。現代の作曲家には失礼かも知れないが、いまや再現芸術という一面も持つクラシックは、時代の淘汰を受け、芸術という言葉にふさわしい深い洗練された内容を獲得してきたと言える。
だがその一方で売れているのに、いわゆるアニソンだからという理由でマスメディアに無視されるのは忍びないと言えば忍びない。確かに歴史も伝統もあるとは言いにくいが、私くらいの世代以下なら誰でも、子供の頃になじんだアニソンはあるはずだ。まあそう言うわけで大人買いする余裕はないが、700円なら少し協力してもいいかな、と少々つむじの曲がっている私は思っている。
高尚だとか芸術だとかオタクだとか言い出したら、せっかくの音楽が楽しめない。クラシックにしても、極端に言えば昔は上流階級の娯楽であった。一般の人々には現在民謡として知られる労働歌やはやり歌がそれであった。現在芸術だとかアートだとか言われている大抵の音楽は、娯楽から始まっているのである。楽しいと思えればそれでいいのではないか、と思う。
遊星ひとつ 〔カワイ出版社〕
2005年6月8日 趣味
今までご存じなかった人は、何はなくとも三善晃という作曲家の名前を覚えて欲しい。桐朋学園の学長と言っても分からないだろう。「赤毛のアン」のアニメのテーマ曲を作曲した人、といえば、もしかしたら「ああ」と思う人が100人に1人はいるかも。合唱や吹奏楽をやっていた人なら、知らない人はモグリ。
三善晃は紛れもなく現代日本を代表する作曲家で、合唱曲も数多く作曲されていて私のような人間には身近な存在である。
栗友会という、合唱をやっている人ならだれでも知っているグループがある。栗山文昭という方が指揮をしているいくつかの合唱団の連合グループで、その中心にいる合唱団OMP(現在は合唱団・響と改名)は全国合唱コンクールにおいて18年間で11回金賞を取り続けてきた、これまた日本を代表する合唱団である。
その栗友会の演奏会で聴いて良かった曲。といっても「ピアノ連弾と男声合唱のための」という、とても珍しい構成であるため、演奏されることはほとんどないのが残念である。三善晃らしい神秘的な和音と独特の構成。ピアノも素晴らしい(三善晃の合唱曲では、ピアノは単なる伴奏ではない)。CDも出ているのだがなぜか検索にかからないので楽譜でご勘弁を。
三善晃は紛れもなく現代日本を代表する作曲家で、合唱曲も数多く作曲されていて私のような人間には身近な存在である。
栗友会という、合唱をやっている人ならだれでも知っているグループがある。栗山文昭という方が指揮をしているいくつかの合唱団の連合グループで、その中心にいる合唱団OMP(現在は合唱団・響と改名)は全国合唱コンクールにおいて18年間で11回金賞を取り続けてきた、これまた日本を代表する合唱団である。
その栗友会の演奏会で聴いて良かった曲。といっても「ピアノ連弾と男声合唱のための」という、とても珍しい構成であるため、演奏されることはほとんどないのが残念である。三善晃らしい神秘的な和音と独特の構成。ピアノも素晴らしい(三善晃の合唱曲では、ピアノは単なる伴奏ではない)。CDも出ているのだがなぜか検索にかからないので楽譜でご勘弁を。
ブラームス:交響曲第1番
2005年6月7日 趣味
ブラームスの音楽は正直言ってあまり好きではない。スコアを見れば分かるが彼は非常に理詰めで音楽を描く人である。一音たりとも無駄な音のないその隙のなさ。これがかえって音楽を窮屈にさせてしまうような気がしてならない。
作曲というものを一度でもしてみれば分かるが、音楽というのは和音一つを取ってみても分かるように、ただでさえ色々な拘束の中で成立しているものなのである。それなのにわざわざ余計な拘束をかけなくても、と思うのだが、それはあくまで嗜好の問題であって、ブラームスが好きな人にとっては、そういった新たな拘束がブラームスの「仕掛け」に見えるのであり、その「仕掛け」を味わうことがこの上ない楽しみである、と主張される。
それはそれで理解はできるのだが、そういう聴き方は私の好みではない、ということだ。最近有名な某クラシック漫画の言を借りれば「本能によって捉え 感覚によって統御する」音楽が私の好むところである。
まあ、こんなことを言っても目くそ鼻くそを笑うようなものである。なまじ楽譜が読めてしまうと純粋に音楽が楽しめなくなる良い例である。アナリーゼなんかくそくらえ、と思いたいのだけれども、どうしてもせずにはいられなくなる情けなさ。
というわけで(?)ブラームスで私が持っているのは数が少ない。私は基本的には録音のいいものしか聴かないしまた人にも薦めないので、(ある人には悪いが)フルトヴェングラーはどうしてもセカンド・チョイスになる。だがこのシャルル・ミュンシュ/パリ管弦楽団の一枚はまさに人類の宝。このブラームスは聴ける。ちなみに楽譜を持って聴くと最後で「あれっ?」と思うはず。こういう仕掛けは私的には大歓迎。
作曲というものを一度でもしてみれば分かるが、音楽というのは和音一つを取ってみても分かるように、ただでさえ色々な拘束の中で成立しているものなのである。それなのにわざわざ余計な拘束をかけなくても、と思うのだが、それはあくまで嗜好の問題であって、ブラームスが好きな人にとっては、そういった新たな拘束がブラームスの「仕掛け」に見えるのであり、その「仕掛け」を味わうことがこの上ない楽しみである、と主張される。
それはそれで理解はできるのだが、そういう聴き方は私の好みではない、ということだ。最近有名な某クラシック漫画の言を借りれば「本能によって捉え 感覚によって統御する」音楽が私の好むところである。
まあ、こんなことを言っても目くそ鼻くそを笑うようなものである。なまじ楽譜が読めてしまうと純粋に音楽が楽しめなくなる良い例である。アナリーゼなんかくそくらえ、と思いたいのだけれども、どうしてもせずにはいられなくなる情けなさ。
というわけで(?)ブラームスで私が持っているのは数が少ない。私は基本的には録音のいいものしか聴かないしまた人にも薦めないので、(ある人には悪いが)フルトヴェングラーはどうしてもセカンド・チョイスになる。だがこのシャルル・ミュンシュ/パリ管弦楽団の一枚はまさに人類の宝。このブラームスは聴ける。ちなみに楽譜を持って聴くと最後で「あれっ?」と思うはず。こういう仕掛けは私的には大歓迎。
ドブォルザーク/交響曲第9番 「新世界より」 ケルテス
2005年6月6日 趣味
「新世界より」は第2楽章(『遠き山に日は落ちて』のメロディー)があまりにも有名であるが、他の楽章もなかなか聴き応えがあるのでぜひ全曲通して聴いて欲しい。コンサートでも人気の曲であるので、できればコンサートで。
別に意図的に古い録音を選んでいるわけではないが、色々聴いてみた結果、残念ながらやはりこの一枚。イシュトバン・ケルテス指揮、ウィーンフィル、1961年の録音。この3点を覚えて頂ければ大丈夫。そのくらい有名な一枚。
巷にでているクラシックのおすすめの一枚的な本を開けて頂ければ、批評は大抵載っているので、あえてコメントはしない。権威に迎合するのは必ずしも好むところではないが、この一枚に限っては評価は本当に確立していて、ある批評家などは「これを上回るCDを絶対見つけてやる、と思って何十枚も聴いたけど、やっぱりこの一枚が最高だった。悔しい」と言っておられたほど。何十枚もさすがに聴いていないが、確かにその通りだと思う。
この一枚を購入時の注意は、ロンドン・フィルが演奏している一枚を間違って買ってしまわないこと。これも名演だが、ウィーンフィルに比べると残念ながらわずかに落ちる。
なお、個人的にはバーンスタインの一枚も好きであるが、第二楽章が普通の演奏の倍近い長さ(つまり超スローテンポ)なので一般向けではない。
別に意図的に古い録音を選んでいるわけではないが、色々聴いてみた結果、残念ながらやはりこの一枚。イシュトバン・ケルテス指揮、ウィーンフィル、1961年の録音。この3点を覚えて頂ければ大丈夫。そのくらい有名な一枚。
巷にでているクラシックのおすすめの一枚的な本を開けて頂ければ、批評は大抵載っているので、あえてコメントはしない。権威に迎合するのは必ずしも好むところではないが、この一枚に限っては評価は本当に確立していて、ある批評家などは「これを上回るCDを絶対見つけてやる、と思って何十枚も聴いたけど、やっぱりこの一枚が最高だった。悔しい」と言っておられたほど。何十枚もさすがに聴いていないが、確かにその通りだと思う。
この一枚を購入時の注意は、ロンドン・フィルが演奏している一枚を間違って買ってしまわないこと。これも名演だが、ウィーンフィルに比べると残念ながらわずかに落ちる。
なお、個人的にはバーンスタインの一枚も好きであるが、第二楽章が普通の演奏の倍近い長さ(つまり超スローテンポ)なので一般向けではない。
ベートーヴェン 交響曲第9番ニ短調 作品125(合唱付)
2005年6月5日 趣味
これはおすすめの『楽譜』である。楽譜の読めない人にはなんのことか分からないかも、であるが、ろくに読めない妻も、簡単な読み方を教えて楽譜を見せながら聞かせると「なかなか面白いね」といってくれる。
オーケストラの楽譜の読み方はそんなに難しくない。聴きながら見ればいいのである。あとはどの五線譜がどの楽器であるかが分かればいい。Vn(ヴァイオリン)、Vc(チェロ)、Fl(フルート)と言った記号が付いているので慣れてくれば分かる。
第9の見所は何と言っても第四楽章、つまり合唱の入っているところである。合唱もそうであるが、オーケストラもピッコロ、ダブルバスーン、トライアングルといった交響曲ではあまりお目にかからない楽器が加えられていて面白い。
あとテノールのソロのパートを見て欲しい。ソロなのになぜか旋律が二つに分かれている所がある。これはベートーヴェンが最初に作曲したメロディーが余りにも高音(何せHがある)で、当時のテノールで出せる人がほとんどいなかったため、初演後にベートーヴェンがもう少し低いメロディーを書き加えたためこうなったものである。
ただし現在この低いメロディーを歌う人はほとんどいない。しかし実は先日お薦めしたベーム/ウィーン交響楽団の一枚は珍しくテノールが低いメロディーを歌っている。
オーケストラの楽譜の読み方はそんなに難しくない。聴きながら見ればいいのである。あとはどの五線譜がどの楽器であるかが分かればいい。Vn(ヴァイオリン)、Vc(チェロ)、Fl(フルート)と言った記号が付いているので慣れてくれば分かる。
第9の見所は何と言っても第四楽章、つまり合唱の入っているところである。合唱もそうであるが、オーケストラもピッコロ、ダブルバスーン、トライアングルといった交響曲ではあまりお目にかからない楽器が加えられていて面白い。
あとテノールのソロのパートを見て欲しい。ソロなのになぜか旋律が二つに分かれている所がある。これはベートーヴェンが最初に作曲したメロディーが余りにも高音(何せHがある)で、当時のテノールで出せる人がほとんどいなかったため、初演後にベートーヴェンがもう少し低いメロディーを書き加えたためこうなったものである。
ただし現在この低いメロディーを歌う人はほとんどいない。しかし実は先日お薦めしたベーム/ウィーン交響楽団の一枚は珍しくテノールが低いメロディーを歌っている。
研修医はなぜ労働者か
2005年6月4日 最高裁で確定したが、理由が今ひとつ不明確なので、原判決を拾ってみた(一部改変してあります)。
研修という特殊な状況であることは認めながらも、全体を見れば他人の指揮下にあり、時間的場所的に拘束されしかも自由意志がなく、かつ賃金を受け取っており、それが所得として処理されている。だから労働者と認める、というわけである。
自分は実際に働いていたので、この定義はその時の実感に照らしても一致する。一方で「奨学金」といっておきながら源泉徴収をしたり、「自主的に参加していたのだから労働者ではない」「裁判所法で身分の定められている司法修習生と違い、研修医の地位について定めた法令はない」といったりする大学の姿勢は片腹痛いものがある。
逆にいえば、研修医の地位がそれまで行政に放置され、各大学や病院の解釈に任されていたことがこの悲劇を生んだと言える。
なお、裁判の対象になった期間(約10週間)の労働時間は
法定時間内勤務分 400時間
時間外勤務分 208.5時間
深夜勤務分 54時間
日曜・休日出勤分 126時間
計 788.5時間であり、この間に支払われるべき「最低」賃金は、61,1767円(時給671円で計算)、これに対し大学が支給した額は187,500円となっている。私が働いていたときも給料は安かったが、流石に時給1000円は超えていたから、そのことを考えれば100万近くはもらっても良いことになる。
結局お金の話か、という向きもあるだろうが、愛する息子を失った代償として、たった40万のお金を請求する親がどこにいるというのか。この裁判は、弁護団をはじめとする周囲の色々な思惑はあっただろうが、結局は「せめて息子を人間として認めて欲しい」という親の切なる願いが根底にあったのだと私は信じることにしている。それが金を払え払わないという話でしか争えないのは日本の司法の限界であると言える。
(1)「労働者」とは,労働基準法第9条で「職業の種類を問わず,事業に使用される者で,賃金を支払われる者」である旨規定されている。
(2)「使用される者」とは,他人の指揮命令ないし具体的指示のもとに労務を供給する関係にある者をいうと解されるが,具体的に「使用される者」に該当するか否かは
(イ)仕事の依頼,業務従事への指示等に関する諾否の自由の有無
(ロ)業務遂行上の指揮監督の有無
(ハ)場所的・時間的拘束性の有無
(ニ)労務提供の代替性の有無
(ホ)業務用器具の負担関係
(ヘ)報酬が労働自体の対償的性格を有するか否か
(ト)他業務への従事が制度上もしくは事実上制約されているか
(チ)報酬につき給与所得として源泉徴収を行っているか
等を総合的に考慮して判断されるべきである。
(3)研修医は,臨床研修において,医学的知識と技術,医師のあるべき姿勢,態度等を学ぶことを目的としており,その意味においては,自らの自発性に委ねられるところがあることは否定できないところである。
(4)Aは,指導医の診察を補助するとともに,指導医からの指示によって検査の予約等をしており,指導医と研修医との間に業務遂行上の指揮監督関係が認められる。
(5)平日(月曜日から金曜日)の午前7時30分から午後7時までの研修時間中においては,Aらに指導医からの指示に対する諾否の自由が与えられていなかった。
(6)月曜日から金曜日は午前7時30分までに被告病院に赴き,入院患者の採血を開始し,午後7時ころに入院患者への点滴が終了するまでは被告病院におり,土曜日及び日曜日についても,午前7時30分までには被告病院に赴き,入院患者の採血や点滴をしており,場所的・時間的拘束性が認められる。
(7)業務用器具についてはいずれの作業も被告病院の器具を用いている。
(8)被告は研修医に対して月額6万円及び副直手当相当額の金員を支給している。
(9)被告病院における研修内容及び拘束時間に照らせば,Aら研修医は,事実上,他の業務への従事が制約されている。
(10)Aが被告から支給を受けた金員は,給与所得として源泉徴収がなされていることが認められる。
(11)これらの事情を総合して検討すれば,Aら研修医は,研修目的からくる自発的な発意の許容される部分を有し,その意味において特殊な地位を有することは否定できないが,全体としてみた場合,他人の指揮命令下に医療に関する各種業務に従事しているということができるので,Aは「労働者」(労働基準法9条,最低賃金法2条1号)に該当すると認められる。
研修という特殊な状況であることは認めながらも、全体を見れば他人の指揮下にあり、時間的場所的に拘束されしかも自由意志がなく、かつ賃金を受け取っており、それが所得として処理されている。だから労働者と認める、というわけである。
自分は実際に働いていたので、この定義はその時の実感に照らしても一致する。一方で「奨学金」といっておきながら源泉徴収をしたり、「自主的に参加していたのだから労働者ではない」「裁判所法で身分の定められている司法修習生と違い、研修医の地位について定めた法令はない」といったりする大学の姿勢は片腹痛いものがある。
逆にいえば、研修医の地位がそれまで行政に放置され、各大学や病院の解釈に任されていたことがこの悲劇を生んだと言える。
なお、裁判の対象になった期間(約10週間)の労働時間は
法定時間内勤務分 400時間
時間外勤務分 208.5時間
深夜勤務分 54時間
日曜・休日出勤分 126時間
計 788.5時間であり、この間に支払われるべき「最低」賃金は、61,1767円(時給671円で計算)、これに対し大学が支給した額は187,500円となっている。私が働いていたときも給料は安かったが、流石に時給1000円は超えていたから、そのことを考えれば100万近くはもらっても良いことになる。
結局お金の話か、という向きもあるだろうが、愛する息子を失った代償として、たった40万のお金を請求する親がどこにいるというのか。この裁判は、弁護団をはじめとする周囲の色々な思惑はあっただろうが、結局は「せめて息子を人間として認めて欲しい」という親の切なる願いが根底にあったのだと私は信じることにしている。それが金を払え払わないという話でしか争えないのは日本の司法の限界であると言える。
NHK部長、番組内で改めて謝罪 プロジェクトX問題 [朝日新聞]
2005年5月29日 時事ニュース
05月29日付 朝日新聞の報道「NHK部長、番組内で改めて謝罪 プロジェクトX問題」へのコメント:
たまには音楽を離れるのもいい。
大阪に長年住んでいるヒトなら、30年前の淀工が荒れていないことなどすぐに分かる。私が住んでいたのは25年くらい前だが、その頃は工業系であるのにもかかわらず偏差値で言えば60近くないと入れない学校だった(偏差値で議論するのは問題もあるが、目安にはなるだろう)。最近は昔に比べるとかなり落ちてしまったが、それでもまだ底辺校というわけではない。たまたま見ていて「あれぇ」と思っていたのだが、やはり捏造だった。昔から吹奏楽は全国トップレベルだったし、あの番組のような事は絶対あり得ない。
…とまともな大阪人ならテレビに突っ込んでいたことだろう。最近の一連の不祥事や騒動と言い、どうもあの放送局には体質的な問題があるのだろう、と伺わせるに充分な一件である。
たまには音楽を離れるのもいい。
大阪に長年住んでいるヒトなら、30年前の淀工が荒れていないことなどすぐに分かる。私が住んでいたのは25年くらい前だが、その頃は工業系であるのにもかかわらず偏差値で言えば60近くないと入れない学校だった(偏差値で議論するのは問題もあるが、目安にはなるだろう)。最近は昔に比べるとかなり落ちてしまったが、それでもまだ底辺校というわけではない。たまたま見ていて「あれぇ」と思っていたのだが、やはり捏造だった。昔から吹奏楽は全国トップレベルだったし、あの番組のような事は絶対あり得ない。
…とまともな大阪人ならテレビに突っ込んでいたことだろう。最近の一連の不祥事や騒動と言い、どうもあの放送局には体質的な問題があるのだろう、と伺わせるに充分な一件である。